2007年08月31日

それから 四の二

四の二

 代助は机の上の書物を伏せると立ち上(あ)がつた。縁側(えんがは)の硝子戸(がらすど)を細目(ほそめ)に開(あ)けた間(あひだ)から暖(あたゝ)かい陽気な風が吹き込んで来(き)た。さうして鉢植のアマランスの赤い瓣(はなびら)をふら/\と揺(うご)かした。日(ひ)は大きな花の上(うへ)に落ちてゐる。代助は曲(こゞ)んで、花の中(なか)を覗(のぞ)き込んだ。やがて、ひよろ長い雄蕊(ずゐ)の頂(いたゞ)きから、花粉(くわふん)を取つて、雌蕊(しずゐ)の先(さき)へ持つて来(き)て、丹念(たんねん)に塗(ぬ)り付(つ)けた。
「蟻(あり)でも付(つ)きましたか」と門野(かどの)が玄関の方から出(で)て来(き)た。袴(はかま)を穿(は)いてゐる。代助は曲(こゞ)んだ儘顔を上(あ)げた。
「もう行(い)つて来(き)たの」
「えゝ、行(い)つて来(き)ました。何(なん)ださうです。明日(あした)御引移(おひきうつ)りになるさうです。今日(けふ)是から上(あ)がらうと思つてた所だと仰(おつ)しやいました」
「誰(だれ)が? 平岡が?」
「えゝ。――どうも何(なん)ですな。大分御忙(いそ)がしい様ですな。先生た余つ程違(ちが)つてますね。――蟻なら種油(たねあぶら)を御注(おつ)ぎなさい。さうして苦(くる)しがつて、穴から出(で)て来(く)る所を一々(いち/\)殺すんです。何なら殺(ころ)しませうか」
「蟻ぢやない。斯(か)うして、天気の好(い)い時に、花粉を取(と)つて、雌蕊(しずゐ)へ塗り付(つ)けて置くと、今に実(み)が結(な)るんです。暇(ひま)だから植木屋から聞(き)いた通り、遣(や)つてる所だ」
「なある程。どうも重宝な世の中(なか)になりましたね。――然し盆栽は好(い)いもんだ。奇麗で、楽しみになつて」
 代助は面倒臭(めんどくさ)いから返事をせずに黙つてゐた。やがて、
「悪戯(いたづら)も好加減(いゝかげん)に休(よ)すかな」と云ひながら立ち上(あ)がつて、縁側へ据付(すゑつけ)の、籐(と)の安楽椅子(いす)に腰を掛けた。夫れ限(ぎ)りぽかんと何か考へ込んでゐる。門野(かどの)は詰(つま)らなくなつたから、自分の玄関傍(わき)の三畳敷(じき)へ引き取つた。障子(じ)を開(あ)けて這入らうとすると、又縁側へ呼び返(かへ)された。
「平岡が今日(けふ)来(く)ると云つたつて」
「えゝ、来(く)る様な御話しでした」
「ぢや待(ま)つてゐやう」
 代助は外出を見合せた。実は平岡の事が此間(このあひだ)から大分気に掛(かゝ)つてゐる。
 平岡は此前(このぜん)、代助を訪問した当時、既(すで)に落ち付(つ)いてゐられない身分であつた。彼(かれ)自身の代助に語つた所によると、地位の心当りが二三ヶ所あるから、差し当り其方面へ運動して見る積りなんださうだが、其二三ヶ所が今どうなつてゐるか、代助は殆んど知らない。代助の方から神保町の宿(やど)を訪(たづ)ねた事が二返あるが、一度は留守であつた。一度は居つたには居(お)つた。が、洋服を着(き)た儘、部屋(へや)の敷居(しきゐ)の上に立つて、何(なに)か急(せわ)しい調子で、細君を極(き)め付(つ)けてゐた。――案内なしに廊下を伝(つた)つて、平岡の部屋の横(よこ)へ出(で)た代助には、突然ながら、たしかに左様(さう)取れた。其時平岡は一寸(ちよつと)振り向(む)いて、やあ君かと云つた。其顔にも容子にも、少しも快(こゝろ)よさゝうな所は見えなかつた。部屋の内(なか)から顔を出した細君は代助を見て、蒼白(あをじろ)い頬(ほゝ)をぽつと赤くした。代助は何となく席に就(つ)き悪(にく)くなつた。まあ這入れと申し訳に云ふのを聞き流して、いや別段用ぢやない。何(ど)うしてゐるかと思つて一寸(ちよつと)来(き)て見た丈だ。出掛(でか)けるなら一所に出様(でやう)と、此方(こつち)から誘ふ様にして表(おもて)へ出(で)て仕舞つた。
 其時平岡は、早く家(いへ)を探(さが)して落ち付きたいが、あんまり忙(いそが)しいんで、何(ど)うする事も出来ない、たまに宿(やど)のものが教へてくれるかと思ふと、まだ人が立ち退(の)かなかつたり、あるひは今壁(かべ)を塗(ぬ)つてる最中(さいちう)だつたりする。などと、電車へ乗つて分れる迄諸事苦情づくめであつた。代助も気の毒になつて、そんなら家(いへ)は、宅(うち)の書生に探(さが)させやう。なに不景気だから、大分空(あ)いてるのがある筈だ。と請合(うけあ)つて帰つた。
 夫(それ)から約束通り門野(かどの)を探(さが)しに出(だ)した。出(だ)すや否や、門野はすぐ恰好(かつこう)なのを見付けて来(き)た。門野(かどの)に案内をさせて平岡夫婦に見せると、大抵可(よ)からうと云ふ事で分(わか)れたさうだが、門野(かどの)は家主(いへぬし)の方へ責任もあるし、又其所(そこ)が気に入らなければ外(ほか)を探(さが)す考もあるからと云ふので、借りるか借りないか判然(はつきり)した所を、もう一遍確かめさしたのである。
「君、家主(いへぬし)の方へは借(か)りるつて、断わつて来(き)たんだらうね」
「えゝ、帰りに寄(よ)つて、明日(あした)引越すからつて、云つて来(き)ました」
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2007年08月06日

それから 四の一

 代助は今読み切(き)つた許(ばかり)の薄(うす)い洋書を机の上に開(あ)けた儘、両肱(ひぢ)を突(つ)いて茫乎(ぼんやり)考へた。代助の頭(あたま)は最後の幕(まく)で一杯になつてゐる。――遠くの向ふに寒(さむ)さうな樹が立つてゐる後(うしろ)に、二つの小さな角燈が音(おと)もなく揺(ゆら)めいて見えた。絞首台は其所(そこ)にある。刑人は暗(くら)い所に立つた。木履(くつ)を片足(かたあし)失(な)くなした、寒(さむ)いと一人(ひとり)が云ふと、何(なに)を? と一人(ひとり)が聞き直(なほ)した。木履(くつ)を失(な)くなして寒いと前(まへ)のものが同じ事を繰り返した。Mは何処(どこ)にゐると誰(だれ)か聞いた。此所(こゝ)にゐると誰(だれ)か答へた。樹(き)の間(あひだ)に大きな、白い様な、平たいものが見える。湿(しめ)つぽい風(かぜ)が其所(そこ)から吹いて来(く)る。海だとGが云つた。しばらくすると、宣告文を書(か)いた紙(かみ)と、宣告文を持つた、白い手――手套(てぶくろ)を穿(は)めない――を角燈が照(て)らした。読上(よみあ)げんでも可(よ)からうといふ声がした。其の声は顫へてゐた。やがて角燈が消えた。……もう只(たつた)一人(ひとり)になつたとKが云つた。さうして溜息(ためいき)を吐(つ)いた。Sも死んで仕舞つた。Wも死んで仕舞つた。Mも死んで仕舞つた。只(たつた)一人(ひとり)になつて仕舞つた。……
 海から日(ひ)が上(あが)つた。続きを読む
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