2006年11月22日

それから三の四


「身体(からだ)は丈夫だね」
「二三年このかた風邪(かぜ)を引(ひ)いた事(こと)もありません」
「頭(あたま)も悪(わる)い方ぢやないだらう。学校の成蹟も可(か)なりだつたんぢやないか」
「まあ左様(さう)です」
「夫(それ)で遊(あそ)んでゐるのは勿体ない。あの何とか云つたね、そら御前(おまへ)の所へ善(よ)く話しに来(き)た男があるだらう。己(おれ)も一二度逢つたことがある」
「平岡ですか」
「さう平岡。あの人なぞは、あまり出来の可(い)い方ぢやなかつたさうだが、卒業すると、すぐ何処(どこ)かへ行つたぢやないか」
「其代り失敗(しくじつ)て、もう帰(かへ)つて来(き)ました」
 老人は苦笑を禁じ得なかつた。
「どうして」と聞いた。
「詰(つま)り食(く)ふ為(ため)に働(はた)らくからでせう」
 老人には此意味が善(よ)く解(わか)らなかつた。
「何(なに)か面白くない事でも遣(や)つたのかな」と聞き返した。
「其場合々々で当然の事を遣るんでせうけれども、其当然が矢っ張り失敗(しくじり)になるんでせう」
「はあゝ」と気の乗らない返事をしたが、やがて調子を易(か)へて、説き出した。
「若い人がよく失敗(しくじる)といふが、全く誠実と熱心が足りないからだ。己(おれ)も多年の経験で、此年(このとし)になる迄遣(や)つて来(き)たが、どうしても此二つがないと成功しないね」
「誠実と熱心があるために、却つて遣り損ふこともあるでせう」
「いや、先(まづ)ないな」
 親爺(おやぢ)の頭(あたま)の上(うへ)に、誠者天之道也と云ふ額が麗々と掛けてある。先代の旧藩主に書いて貰つたとか云つて、親爺(おやぢ)は尤も珍重してゐる。代助は此額が甚だ嫌である。第一字が嫌だ。其上文句が気に喰はない。誠は天の道なりの後(あと)へ、人の道にあらずと附け加へたい様な心持がする。
 其昔し藩の財政が疲弊して、始末が付かなくなつた時、整理の任に当つた長井は、藩侯に縁故のある町人を二三人呼び集めて、刀(かたな)を脱いで其前に頭(あたま)を下(さ)げて、彼等に一時の融通を頼んだ事がある。固より返(かへ)せるか、返せないか、分らなかつたんだから、分らないと真直に自白して、それがために其時成功した。その因縁で此額(がく)を藩主に書(か)いて貰(もら)つたんである。爾来長井は何時(いつ)でも、之を自分の居間(ゐま)に掛けて朝夕眺めてゐる。代助は此額の由来を何遍聞(き)かされたか知れない。
 今から十五六年前に、旧藩主の家(いへ)で、月々(つき/″\)の支出が嵩(かさ)んできて、折角持ち直した経済が又崩(くづ)れ出した時にも、長井は前年の手腕によつて、再度の整理を委託された。其時長井は自分で風呂の薪(まき)を焚いて見(み)て、実際の消費高(だか)と帳面づらの消費高(だか)との差違から調(しら)べにかゝつたが、終日終夜この事丈に精魂を打ち込んだ結果は、約一ヶ月内に立派な方法を立て得るに至つた。それより以後藩主の家では比較的豊かな生計(くらし)をしてゐる。
 斯う云ふ過去の歴史を持つてゐて、此過去の歴史以外には、一歩も踏み出して考へる事を敢てしない長井は、何(なん)によらず、誠実と熱心へ持つて行きたがる。
「御前は、どう云ふものか、誠実と熱心が欠けてゐる様だ。それぢや不可ん。だから何にも出来ないんだ」
「誠実も熱心もあるんですが、たゞ人事上に応用出来ないんです」
「何(ど)う云ふ訳で」
 代助は又返答に窮した。代助の考によると、誠実だらうが、熱心だらうが、自分が出来合(できあひ)の奴(やつ)を胸に蓄(たく)はへてゐるんぢやなくつて、石と鉄と触れて火花(ひばな)の出(で)る様に、相手次第で摩擦の具合がうまく行けば、当事者二人(ににん)の間に起るべき現象である。自分の有する性質と云ふよりは寧ろ精神の交換作用である。だから相手が悪(わる)くつては起(おこ)り様がない。
「御父(おとう)さんは論語だの、王陽明だのといふ、金(きん)の延金(のべがね)を呑(の)んで入らつしやるから、左様(さう)いふ事を仰しやるんでせう」
「金(きん)の延金(のべがね)とは」
 代助はしばらく黙(だま)つてゐたが、漸やく、
「延金(のべがね)の儘出(で)て来(く)るんです」と云つた。長井は、書物癖のある、偏窟な、世慣れない若輩のいひたがる不得要領の警句として、好奇心のあるにも拘はらず、取り合ふ事を敢てしなかつた。
posted by こころ at 19:01 | トラックバック(0) | それから
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