2007年02月08日

それから三の五


 それから約四十分程して、老人は着物(きもの)を着換(きか)えて、袴(はかま)を穿(は)いて、俥(くるま)に乗(の)つて、何処(どこ)かへ出(で)て行(い)つた。代助も玄関迄送つて出たが、又引き返して客間(きやくま)の戸を開けて中(なか)へ這入(はい)つた。是(これ)は近頃(ちかごろ)になつて建(た)て増した西洋作りで、内部の装飾其他の大部分は、代助の意匠に本(もと)づいて、専門家へ注文して出来上つたものである。ことに欄間(らんま)の周囲に張つた模様画は、自分の知り合ひの去る画家に頼(たの)んで、色々相談の揚句(あげく)に成つたものだから、特更興味が深い。代助は立ちながら、画巻物(ゑまきもの)を展開(てんかい)した様な、横長(よこなが)の色彩(しきさい)を眺めてゐたが、どう云ふものか、此前(このまへ)来(き)て見た時よりは、痛(いた)く見劣りがする。是では頼(たの)もしくないと思ひながら、猶局部々々に眼(め)を付(つ)けて吟味してゐると、突然嫂(あによめ)が這入つて来た。
「おや、此所(こゝ)に入(い)らつしやるの」と云つたが、「一寸(ちよいと)其所(そこい)らに私(わたくし)の櫛(くし)が落ちて居(ゐ)なくつて」と聞いた。櫛(くし)は長椅子(ソーフア)の足(あし)の所(ところ)にあつた。昨日(きのふ)縫子(ぬひこ)に貸(か)して遣(や)つたら、何所(どこ)かへ失(なく)なして仕舞つたんで、探(さが)しに来(き)たんださうである。両手で頭(あたま)を抑へる様にして、櫛(くし)を束髪の根方(ねがた)へ押し付けて、上眼(うはめ)で代助を見ながら、
「相変らず茫乎(ぼんやり)してるぢやありませんか」と調戯(からか)つた。
「御父(おとう)さんから御談義を聞(き)かされちまつた」
「また? 能く叱(しか)られるのね。御帰り匆々、随分気が利かないわね。然し貴方(あなた)もあんまり、好(よ)かないわ。些とも御父(おとう)さんの云ふ通りになさらないんだもの」
「御父(おとう)さんの前で議論なんかしやしませんよ。万事控え目に大人しくしてゐるんです」
「だから猶始末が悪(わる)いのよ。何か云ふと、へい/\つて、さうして、些(ちつ)とも云ふ事を聞かないんだもの」
 代助は苦笑して黙(だま)つて仕舞つた。梅子(うめこ)は代助の方へ向いて、椅子へ腰を卸した。脊(せい)のすらりとした、色の浅黒い、眉の濃(こ)い、唇の薄い女である。
「まあ、御掛(おか)けなさい。少し話し相手になつて上(あ)げるから」
 代助は矢っ張り立つた儘、嫂(あによめ)の姿(すがた)を見守つてゐた。
「今日(けふ)は妙な半襟(はんえり)を掛けてますね」
「これ?」
 梅子は顎(あご)を縮(ちゞ)めて、八の字を寄せて、自分の襦袢の襟を見やうとした。
「此間(こないだ)買つたの」
「好(い)い色だ」
「まあ、そんな事は、何(ど)うでも可(い)いから、其所(そこ)へ御掛(おか)けなさいよ」
 代助は嫂(あによめ)の真(ま)正面へ腰を卸した。
「へえ掛(か)けました」
「一体(いつたい)今日(けふ)は何を叱(しか)られたんです」
「何を叱(しか)られたんだか、あんまり要領を得ない。然し御父(おとう)さんの国家社会の為(ため)に尽すには驚ろいた。何でも十八の年(とし)から今日迄(こんにちまで)のべつに尽(つく)してるんだつてね」
「それだから、あの位に御成りになつたんぢやありませんか」
「国家社会の為に尽(つく)して、金(かね)が御父(おとう)さん位儲かるなら、僕も尽(つく)しても好(い)い」
「だから遊んでないで、御尽(つく)しなさいな。貴方(あなた)は寐てゐて御金(おかね)を取(と)らうとするから狡猾よ」
「御金(おかね)を取らうとした事は、まだ有(あ)りません」
「取(と)らうとしなくつても、使(つか)ふから同(おんな)じぢやありませんか」
「兄(にい)さんが何(なん)とか云つてましたか」
「兄(にい)さんは呆(あき)れてるから、何とも云やしません」
「随分猛烈だな。然し御父(おとう)さんより兄(にい)さんの方が偉(えら)いですね」
「何(ど)うして。――あら悪(にく)らしい、又あんな御世辞を使つて。貴方(あなた)はそれが悪(わる)いのよ。真面目(まじめ)な顔をして他(ひと)を茶化すから」
「左様(そん)なもんでせうか」
「左様(そん)なもんでせうかつて、他(ひと)の事ぢやあるまいし。少(すこ)しや考へて御覧なさいな」
「何(ど)うも此所(こゝ)へ来(く)ると、丸で門野(かどの)と同(おんな)じ様になつちまふから困(こま)る」
「門野(かどの)つて何(なん)です」
「なに宅(うち)にゐる書生ですがね。人(ひと)に何か云はれると、屹度左様(そん)なもんでせうか、とか、左様(さう)でせうか、とか答へるんです」
「あの人が? 余っ程妙なのね」
posted by こころ at 23:10 | トラックバック(0) | それから
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