2007年04月28日

それから 三の六


三の六

 代助は一寸(ちよつと)話(はなし)を已(や)めて、梅子(うめこ)の肩越(かたごし)に、窓掛(まどかけ)の間(あひだ)から、奇麗な空(そら)を透(す)かす様に見てゐた。遠くに大きな樹(き)が一本ある。薄茶色(うすちやいろ)の芽(め)を全体に吹いて、柔(やわ)らかい梢(こづえ)の端(はじ)が天(てん)に接(つゞ)く所は、糠雨(ぬかあめ)で暈(ぼか)されたかの如くに霞(かす)んでゐる。
「好(い)い気候になりましたね。何所(どこ)か御花見にでも行きませうか」
「行きませう。行くから仰(おつ)しやい」
「何(なに)を」
「御父(おとう)さまから云はれた事を」
「云はれた事は色々あるんですが、秩序立(ちつじよだ)てて繰(く)り返(かへ)すのは困るですよ。頭(あたま)が悪(わる)いんだから」
「まだ空(そら)つとぼけて居(ゐ)らつしやる。ちやんと知つてますよ」
「ぢや、伺(うかゞ)ひませうか」
 梅子は少しつんとした。
「貴方(あなた)は近頃余つ程減(へ)らず口(ぐち)が達者におなりね」
「何(なに)、姉(ねえ)さんが辟易する程ぢやない。――時に今日(けふ)は大変静かですね。どうしました、小供達は」
「小供は学校です」
 十六七の小間使(こまづかひ)が戸(と)を開(あ)けて顔(かほ)を出した。あの、旦那様が、奥様に一寸(ちよつと)電話口(ぐち)迄と取り次(つ)いだなり、黙つて梅子の返事を待つてゐる。梅子はすぐ立つた。代助も立つた。つゞいて客間(きやくま)を出やうとすると、梅子は振り向いた。
「あなたは、其所(そこ)に居(ゐ)らつしやい。少し話しがあるから」
 代助には嫂(あによめ)のかう云ふ命令的の言葉が何時(いつ)でも面白く感ぜられる。御緩(ごゆつくり)と見送つた儘、又腰を掛けて、再び例の画を眺め出(だ)した。しばらくすると、其色が壁(かべ)の上に塗り付けてあるのでなくつて、自分の眼球(めだま)の中(なか)から飛び出して、壁(かべ)の上(うへ)へ行つて、べた/\喰(く)つ付(つ)く様に見えて来(き)た。仕舞には眼球(めだま)から色を出す具合一つで、向ふにある人物樹木が、此方(こちら)の思ひ通りに変化出来る様になつた。代助はかくして、下手(へた)な個所々々を悉く塗り更(か)へて、とう/\自分の想像し得(う)る限りの尤も美くしい色彩に包囲されて、恍惚と坐(すは)つてゐた。所へ梅子(うめこ)が帰つて来(き)たので、忽ち当り前の自分に戻つて仕舞つた。
 梅子の用事と云ふのを改まつて聞いて見ると、又例の縁談の事であつた。代助は学校を卒業する前から、梅子の御蔭で写真実物色々な細君の候補者に接した。けれども、何(い)づれも不合格者ばかりであつた。始めのうちは体裁の好(い)い逃(にげ)口上で断わつてゐたが、二年程前からは、急に図迂(づう)々々しくなつて、屹度相手にけちを付ける。口(くち)と顎(あご)の角度が悪(わる)いとか、眼(め)の長さが顔の幅(はゞ)に比例しないとか、耳の位置が間違(まちが)つてるとか、必ず妙な非難を持つて来(く)る。それが悉く尋常な言草(いひぐさ)でないので、仕舞には梅子も少々考へ出した。是は必竟世話を焼き過ぎるから、付け上つて、人を困(こま)らせるのだらう。当分打遣(うつちや)つて置いて、向ふから頼み出させるに若(し)くはない。と決心して、夫からは縁談の事をついぞ口(くち)にしなくなつた。所が本人は一向困つた様子もなく、依然として海のものとも、山のものとも見当が付かない態度で今日迄暮(くら)して来(き)た。
 其所(そこ)へ親爺(おやぢ)が甚だ因念の深(ふか)いある候補者を見付けて、旅行先(さき)から帰つた。梅子は代助の来(く)る二三日前に、其話を親爺(おやぢ)から聞かされたので、今日(けふ)の会談は必ずそれだらうと推したのである。然し代助は実際老人から結婚問題に付いては、此日(このひ)何にも聞(き)かなかつたのである。老人は或はそれを披露する気で、呼んだのかも知れないが、代助の態度を見て、もう少し控えて置く方が得策だといふ了見を起した結果、故意(わざ)と話題を避けたとも取れる。
 此候補者に対して代助は一種特殊な関係を有(も)つてゐた。候補者の姓は知つてゐる。けれど名は知らない。年齢、容貌、教育、性質に至つては全く知らない。何故(なぜ)その女が候補者に立つたと云ふ因念になると又能く知つて居る。
posted by こころ at 16:52 | トラックバック(0) | それから
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