2007年08月06日

それから 四の一


 代助は今読み切(き)つた許(ばかり)の薄(うす)い洋書を机の上に開(あ)けた儘、両肱(ひぢ)を突(つ)いて茫乎(ぼんやり)考へた。代助の頭(あたま)は最後の幕(まく)で一杯になつてゐる。――遠くの向ふに寒(さむ)さうな樹が立つてゐる後(うしろ)に、二つの小さな角燈が音(おと)もなく揺(ゆら)めいて見えた。絞首台は其所(そこ)にある。刑人は暗(くら)い所に立つた。木履(くつ)を片足(かたあし)失(な)くなした、寒(さむ)いと一人(ひとり)が云ふと、何(なに)を? と一人(ひとり)が聞き直(なほ)した。木履(くつ)を失(な)くなして寒いと前(まへ)のものが同じ事を繰り返した。Mは何処(どこ)にゐると誰(だれ)か聞いた。此所(こゝ)にゐると誰(だれ)か答へた。樹(き)の間(あひだ)に大きな、白い様な、平たいものが見える。湿(しめ)つぽい風(かぜ)が其所(そこ)から吹いて来(く)る。海だとGが云つた。しばらくすると、宣告文を書(か)いた紙(かみ)と、宣告文を持つた、白い手――手套(てぶくろ)を穿(は)めない――を角燈が照(て)らした。読上(よみあ)げんでも可(よ)からうといふ声がした。其の声は顫へてゐた。やがて角燈が消えた。……もう只(たつた)一人(ひとり)になつたとKが云つた。さうして溜息(ためいき)を吐(つ)いた。Sも死んで仕舞つた。Wも死んで仕舞つた。Mも死んで仕舞つた。只(たつた)一人(ひとり)になつて仕舞つた。……
 海から日(ひ)が上(あが)つた。彼等は死骸を一つの車に積み込んだ。さうして引き出した。長くなつた頸(くび)、飛び出(だ)した眼(め)、唇(くちびる)の上(うへ)に咲いた、怖ろしい花の様な血の泡(あは)に濡(ぬ)れた舌(した)を積み込んで元(もと)の路へ引き返した。……
 代助はアンドレーフの「七刑人」の最後の模様を、此所(こゝ)迄頭(あたま)の中(なか)で繰り返して見て、竦(ぞつ)と肩(かた)を縮(すく)めた。斯(か)う云ふ時に、彼(かれ)が尤も痛切に感(かん)ずるのは、万一自分がこんな場に臨(のぞ)んだら、どうしたら宜からうといふ心配である。考へると到底死ねさうもない。と云つて、無理にも殺されるんだから、如何(いか)にも残酷である。彼は生(せい)の慾望と死の圧迫の間に、わが身を想像して、未練(みれん)に両方に往つたり来(き)たりする苦悶を心に描(ゑが)き出しながら凝(じつ)と坐(すは)つてゐると、脊中(せなか)一面(いちめん)の皮(かは)が毛穴(けあな)ごとにむづ/\して殆(ほと)んど堪(たま)らなくなる。
 彼(かれ)の父(ちゝ)は十七のとき、家中(かちう)の一人(ひとり)を斬り殺して、それが為(た)め切腹をする覚悟をしたと自分で常に人に語(かた)つてゐる。父(ちゝ)の考では兄(あに)の介錯を自分がして、自分の介錯を祖父(ぢゞ)に頼む筈であつたさうだが、能くそんな真似が出来るものである。父(ちゝ)が過去を語(かた)る度(たび)に、代助は父(ちゝ)をえらいと思ふより、不愉快な人間(にんげん)だと思ふ。さうでなければ嘘吐(うそつき)だと思ふ。嘘吐(うそつき)の方がまだ余っ程父(ちゝ)らしい気がする。
 父許(ちゝばかり)ではない。祖父(ぢゞ)に就ても、こんな話がある。祖父(ぢゞ)が若い時分、撃剣の同門の何とかといふ男が、あまり技芸に達してゐた所から、他(ひと)の嫉妬(ねたみ)を受けて、ある夜縄手道(みち)を城下へ帰る途中で、誰(だれ)かに斬り殺された。其時第一に馳け付(つ)けたものは祖父(ぢゞ)であつた。左の手に提灯を翳(かざ)して、右の手に抜身(ぬきみ)を持つて、其抜身(ぬきみ)で死骸(しがい)を叩きながら、軍平(ぐんぺい)確(しつ)かりしろ、創(きづ)は浅(あさ)いぞと云つたさうである。
 伯父(おぢ)が京都で殺された時は、頭巾を着た人間にどや/\と、旅宿(やどや)に踏み込まれて、伯父は二階の廂(ひさし)から飛び下(お)りる途端、庭石に爪付(つまづ)いて倒れる所を上(うへ)から、容赦なく遣(や)られた為に、顔が膾(なます)の様になつたさうである。殺される十日程(ほど)前、夜中(やちう)、合羽(かつぱ)を着(き)て、傘(かさ)に雪を除(よ)けながら、足駄(あしだ)がけで、四条から三条へ帰つた事がある。其時旅宿(やど)の二丁程手前で、突然(とつぜん)後(うしろ)から長井直記(なほき)どのと呼び懸けられた。伯父(おぢ)は振り向きもせず、矢張り傘(かさ)を差(さ)した儘、旅宿(やど)の戸口(とぐち)迄来(き)て、格子(こうし)を開(あ)けて中(なか)へ這入(はいつ)た。さうして格子をぴしやりと締(し)めて、中(うち)から、長井直記(なほき)は拙者だ。何御用か。と聞いたさうである。
 代助は斯んな話を聞く度(たび)に、勇(いさ)ましいと云ふ気持よりも、まづ怖い方が先に立(た)つ。度胸を買つてやる前に、腥(なま)ぐさい臭(にほひ)が鼻柱(はなばしら)を抜ける様に応(こた)へる。
 もし死が可能であるならば、それは発作(ほつさ)の絶高頂に達した一瞬にあるだらうとは、代助のかねて期待する所である。所が、彼は決して発作(ほつさ)性の男でない。手も顫(ふる)へる、足も顫(ふる)へる。声の顫(ふる)へる事や、心臓の飛び上(あ)がる事は始終ある。けれども、激する事は近来殆んどない。激すると云ふ心的状態は、死に近づき得る自然の階段で、激するたびに死(し)に易くなるのは眼(め)に見えてゐるから、時には好奇心で、せめて、其近所迄押し寄せて見(み)たいと思ふ事もあるが、全く駄目である。代助は此頃の自己を解剖するたびに、五六年前の自己と、丸で違(ちが)つてゐるのに驚ろかずにはゐられない。
posted by こころ at 17:43 | トラックバック(0) | それから
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