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<title>夏目漱石全集こころネットで読める読書感想文小説</title>
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<description>夏目漱石の作品「坊ちゃん」「こころ」他紹介。著作権切れにて無料で公開中。</description>
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<title>それから 四の二</title>
<description>四の二 代助は机の上の書物を伏せると立ち上（あ）がつた。縁側（えんがは）の硝子戸（がらすど）を細目（ほそめ）に開（あ）けた間（あひだ）から暖（あたゝ）かい陽気な風が吹き込んで来（き）た。さうして鉢植のアマランスの赤い瓣（はなびら）をふら／＼と揺（うご）かした。日（ひ）は大きな花の上（うへ）に落ちてゐる。代助は曲（こゞ）んで、花の中（なか）を覗（のぞ）き込んだ。やがて、ひよろ長い雄蕊（ずゐ）の頂（いたゞ）きから、花粉（くわふん）を取つて、雌蕊（しずゐ）の先（さき）へ持つて来（き...</description>
<dc:subject>それから</dc:subject>
<dc:creator>こころ</dc:creator>
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四の二<br /><br />　代助は机の上の書物を伏せると立ち上（あ）がつた。縁側（えんがは）の硝子戸（がらすど）を細目（ほそめ）に開（あ）けた間（あひだ）から暖（あたゝ）かい陽気な風が吹き込んで来（き）た。さうして鉢植のアマランスの赤い瓣（はなびら）をふら／＼と揺（うご）かした。日（ひ）は大きな花の上（うへ）に落ちてゐる。代助は曲（こゞ）んで、花の中（なか）を覗（のぞ）き込んだ。やがて、ひよろ長い雄蕊（ずゐ）の頂（いたゞ）きから、花粉（くわふん）を取つて、雌蕊（しずゐ）の先（さき）へ持つて来（き）て、丹念（たんねん）に塗（ぬ）り付（つ）けた。<br />「蟻（あり）でも付（つ）きましたか」と門野（かどの）が玄関の方から出（で）て来（き）た。袴（はかま）を穿（は）いてゐる。代助は曲（こゞ）んだ儘顔を上（あ）げた。<br />「もう行（い）つて来（き）たの」<br />「えゝ、行（い）つて来（き）ました。何（なん）ださうです。明日（あした）御引移（おひきうつ）りになるさうです。今日（けふ）是から上（あ）がらうと思つてた所だと仰（おつ）しやいました」<br />「誰（だれ）が？　平岡が？」<br />「えゝ。――どうも何（なん）ですな。大分御忙（いそ）がしい様ですな。先生た余つ程違（ちが）つてますね。――蟻なら種油（たねあぶら）を御注（おつ）ぎなさい。さうして苦（くる）しがつて、穴から出（で）て来（く）る所を一々（いち／＼）殺すんです。何なら殺（ころ）しませうか」<br />「蟻ぢやない。斯（か）うして、天気の好（い）い時に、花粉を取（と）つて、雌蕊（しずゐ）へ塗り付（つ）けて置くと、今に実（み）が結（な）るんです。暇（ひま）だから植木屋から聞（き）いた通り、遣（や）つてる所だ」<br />「なある程。どうも重宝な世の中（なか）になりましたね。――然し盆栽は好（い）いもんだ。奇麗で、楽しみになつて」<br />　代助は面倒臭（めんどくさ）いから返事をせずに黙つてゐた。やがて、<br />「悪戯（いたづら）も好加減（いゝかげん）に休（よ）すかな」と云ひながら立ち上（あ）がつて、縁側へ据付（すゑつけ）の、籐（と）の安楽椅子（いす）に腰を掛けた。夫れ限（ぎ）りぽかんと何か考へ込んでゐる。門野（かどの）は詰（つま）らなくなつたから、自分の玄関傍（わき）の三畳敷（じき）へ引き取つた。障子（じ）を開（あ）けて這入らうとすると、又縁側へ呼び返（かへ）された。<br />「平岡が今日（けふ）来（く）ると云つたつて」<br />「えゝ、来（く）る様な御話しでした」<br />「ぢや待（ま）つてゐやう」<br />　代助は外出を見合せた。実は平岡の事が此間（このあひだ）から大分気に掛（かゝ）つてゐる。<br />　平岡は此前（このぜん）、代助を訪問した当時、既（すで）に落ち付（つ）いてゐられない身分であつた。彼（かれ）自身の代助に語つた所によると、地位の心当りが二三ヶ所あるから、差し当り其方面へ運動して見る積りなんださうだが、其二三ヶ所が今どうなつてゐるか、代助は殆んど知らない。代助の方から神保町の宿（やど）を訪（たづ）ねた事が二返あるが、一度は留守であつた。一度は居つたには居（お）つた。が、洋服を着（き）た儘、部屋（へや）の敷居（しきゐ）の上に立つて、何（なに）か急（せわ）しい調子で、細君を極（き）め付（つ）けてゐた。――案内なしに廊下を伝（つた）つて、平岡の部屋の横（よこ）へ出（で）た代助には、突然ながら、たしかに左様（さう）取れた。其時平岡は一寸（ちよつと）振り向（む）いて、やあ君かと云つた。其顔にも容子にも、少しも快（こゝろ）よさゝうな所は見えなかつた。部屋の内（なか）から顔を出した細君は代助を見て、蒼白（あをじろ）い頬（ほゝ）をぽつと赤くした。代助は何となく席に就（つ）き悪（にく）くなつた。まあ這入れと申し訳に云ふのを聞き流して、いや別段用ぢやない。何（ど）うしてゐるかと思つて一寸（ちよつと）来（き）て見た丈だ。出掛（でか）けるなら一所に出様（でやう）と、此方（こつち）から誘ふ様にして表（おもて）へ出（で）て仕舞つた。<br />　其時平岡は、早く家（いへ）を探（さが）して落ち付きたいが、あんまり忙（いそが）しいんで、何（ど）うする事も出来ない、たまに宿（やど）のものが教へてくれるかと思ふと、まだ人が立ち退（の）かなかつたり、あるひは今壁（かべ）を塗（ぬ）つてる最中（さいちう）だつたりする。などと、電車へ乗つて分れる迄諸事苦情づくめであつた。代助も気の毒になつて、そんなら家（いへ）は、宅（うち）の書生に探（さが）させやう。なに不景気だから、大分空（あ）いてるのがある筈だ。と請合（うけあ）つて帰つた。<br />　夫（それ）から約束通り門野（かどの）を探（さが）しに出（だ）した。出（だ）すや否や、門野はすぐ恰好（かつこう）なのを見付けて来（き）た。門野（かどの）に案内をさせて平岡夫婦に見せると、大抵可（よ）からうと云ふ事で分（わか）れたさうだが、門野（かどの）は家主（いへぬし）の方へ責任もあるし、又其所（そこ）が気に入らなければ外（ほか）を探（さが）す考もあるからと云ふので、借りるか借りないか判然（はつきり）した所を、もう一遍確かめさしたのである。<br />「君、家主（いへぬし）の方へは借（か）りるつて、断わつて来（き）たんだらうね」<br />「えゝ、帰りに寄（よ）つて、明日（あした）引越すからつて、云つて来（き）ました」<a name="more"></a>

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<title>それから 四の一</title>
<description> 代助は今読み切（き）つた許（ばかり）の薄（うす）い洋書を机の上に開（あ）けた儘、両肱（ひぢ）を突（つ）いて茫乎（ぼんやり）考へた。代助の頭（あたま）は最後の幕（まく）で一杯になつてゐる。――遠くの向ふに寒（さむ）さうな樹が立つてゐる後（うしろ）に、二つの小さな角燈が音（おと）もなく揺（ゆら）めいて見えた。絞首台は其所（そこ）にある。刑人は暗（くら）い所に立つた。木履（くつ）を片足（かたあし）失（な）くなした、寒（さむ）いと一人（ひとり）が云ふと、何（なに）を？ と一人（ひと...</description>
<dc:subject>それから</dc:subject>
<dc:creator>こころ</dc:creator>
<dc:date>2007-08-06T17:43:24+09:00</dc:date>
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　代助は今読み切（き）つた許（ばかり）の薄（うす）い洋書を机の上に開（あ）けた儘、両肱（ひぢ）を突（つ）いて茫乎（ぼんやり）考へた。代助の頭（あたま）は最後の幕（まく）で一杯になつてゐる。――遠くの向ふに寒（さむ）さうな樹が立つてゐる後（うしろ）に、二つの小さな角燈が音（おと）もなく揺（ゆら）めいて見えた。絞首台は其所（そこ）にある。刑人は暗（くら）い所に立つた。木履（くつ）を片足（かたあし）失（な）くなした、寒（さむ）いと一人（ひとり）が云ふと、何（なに）を？　と一人（ひとり）が聞き直（なほ）した。木履（くつ）を失（な）くなして寒いと前（まへ）のものが同じ事を繰り返した。Ｍは何処（どこ）にゐると誰（だれ）か聞いた。此所（こゝ）にゐると誰（だれ）か答へた。樹（き）の間（あひだ）に大きな、白い様な、平たいものが見える。湿（しめ）つぽい風（かぜ）が其所（そこ）から吹いて来（く）る。海だとＧが云つた。しばらくすると、宣告文を書（か）いた紙（かみ）と、宣告文を持つた、白い手――手套（てぶくろ）を穿（は）めない――を角燈が照（て）らした。読上（よみあ）げんでも可（よ）からうといふ声がした。其の声は顫へてゐた。やがて角燈が消えた。……もう只（たつた）一人（ひとり）になつたとＫが云つた。さうして溜息（ためいき）を吐（つ）いた。Ｓも死んで仕舞つた。Ｗも死んで仕舞つた。Ｍも死んで仕舞つた。只（たつた）一人（ひとり）になつて仕舞つた。……<br />　海から日（ひ）が上（あが）つた。<a name="more"></a>彼等は死骸を一つの車に積み込んだ。さうして引き出した。長くなつた頸（くび）、飛び出（だ）した眼（め）、唇（くちびる）の上（うへ）に咲いた、怖ろしい花の様な血の泡（あは）に濡（ぬ）れた舌（した）を積み込んで元（もと）の路へ引き返した。……<br />　代助はアンドレーフの「七刑人」の最後の模様を、此所（こゝ）迄頭（あたま）の中（なか）で繰り返して見て、竦（ぞつ）と肩（かた）を縮（すく）めた。斯（か）う云ふ時に、彼（かれ）が尤も痛切に感（かん）ずるのは、万一自分がこんな場に臨（のぞ）んだら、どうしたら宜からうといふ心配である。考へると到底死ねさうもない。と云つて、無理にも殺されるんだから、如何（いか）にも残酷である。彼は生（せい）の慾望と死の圧迫の間に、わが身を想像して、未練（みれん）に両方に往つたり来（き）たりする苦悶を心に描（ゑが）き出しながら凝（じつ）と坐（すは）つてゐると、脊中（せなか）一面（いちめん）の皮（かは）が毛穴（けあな）ごとにむづ／＼して殆（ほと）んど堪（たま）らなくなる。<br />　彼（かれ）の父（ちゝ）は十七のとき、家中（かちう）の一人（ひとり）を斬り殺して、それが為（た）め切腹をする覚悟をしたと自分で常に人に語（かた）つてゐる。父（ちゝ）の考では兄（あに）の介錯を自分がして、自分の介錯を祖父（ぢゞ）に頼む筈であつたさうだが、能くそんな真似が出来るものである。父（ちゝ）が過去を語（かた）る度（たび）に、代助は父（ちゝ）をえらいと思ふより、不愉快な人間（にんげん）だと思ふ。さうでなければ嘘吐（うそつき）だと思ふ。嘘吐（うそつき）の方がまだ余っ程父（ちゝ）らしい気がする。<br />　父許（ちゝばかり）ではない。祖父（ぢゞ）に就ても、こんな話がある。祖父（ぢゞ）が若い時分、撃剣の同門の何とかといふ男が、あまり技芸に達してゐた所から、他（ひと）の嫉妬（ねたみ）を受けて、ある夜縄手道（みち）を城下へ帰る途中で、誰（だれ）かに斬り殺された。其時第一に馳け付（つ）けたものは祖父（ぢゞ）であつた。左の手に提灯を翳（かざ）して、右の手に抜身（ぬきみ）を持つて、其抜身（ぬきみ）で死骸（しがい）を叩きながら、軍平（ぐんぺい）確（しつ）かりしろ、創（きづ）は浅（あさ）いぞと云つたさうである。<br />　伯父（おぢ）が京都で殺された時は、頭巾を着た人間にどや／＼と、旅宿（やどや）に踏み込まれて、伯父は二階の廂（ひさし）から飛び下（お）りる途端、庭石に爪付（つまづ）いて倒れる所を上（うへ）から、容赦なく遣（や）られた為に、顔が膾（なます）の様になつたさうである。殺される十日程（ほど）前、夜中（やちう）、合羽（かつぱ）を着（き）て、傘（かさ）に雪を除（よ）けながら、足駄（あしだ）がけで、四条から三条へ帰つた事がある。其時旅宿（やど）の二丁程手前で、突然（とつぜん）後（うしろ）から長井直記（なほき）どのと呼び懸けられた。伯父（おぢ）は振り向きもせず、矢張り傘（かさ）を差（さ）した儘、旅宿（やど）の戸口（とぐち）迄来（き）て、格子（こうし）を開（あ）けて中（なか）へ這入（はいつ）た。さうして格子をぴしやりと締（し）めて、中（うち）から、長井直記（なほき）は拙者だ。何御用か。と聞いたさうである。<br />　代助は斯んな話を聞く度（たび）に、勇（いさ）ましいと云ふ気持よりも、まづ怖い方が先に立（た）つ。度胸を買つてやる前に、腥（なま）ぐさい臭（にほひ）が鼻柱（はなばしら）を抜ける様に応（こた）へる。<br />　もし死が可能であるならば、それは発作（ほつさ）の絶高頂に達した一瞬にあるだらうとは、代助のかねて期待する所である。所が、彼は決して発作（ほつさ）性の男でない。手も顫（ふる）へる、足も顫（ふる）へる。声の顫（ふる）へる事や、心臓の飛び上（あ）がる事は始終ある。けれども、激する事は近来殆んどない。激すると云ふ心的状態は、死に近づき得る自然の階段で、激するたびに死（し）に易くなるのは眼（め）に見えてゐるから、時には好奇心で、せめて、其近所迄押し寄せて見（み）たいと思ふ事もあるが、全く駄目である。代助は此頃の自己を解剖するたびに、五六年前の自己と、丸で違（ちが）つてゐるのに驚ろかずにはゐられない。

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<title>それから三の七</title>
<description>三の七 代助の父（ちゝ）には一人（ひとり）の兄（あに）があつた。直記（なほき）と云つて、父（ちゝ）とはたつた一つ違ひの年上（としうへ）だが、父（ちゝ）よりは小柄（こがら）なうへに、顔付（かほつき）眼鼻立（めはなだち）が非常に似（に）てゐたものだから、知らない人には往々双子（ふたご）と間違へられた。其折は父も得（とく）とは云はなかつた。誠之進といふ幼名で通（とほ）つてゐた。 直記（なほき）と誠之進とは外貌のよく似てゐた如く、気質（きだて）も本当の兄弟であつた。両方に差支のあると...</description>
<dc:subject>それから</dc:subject>
<dc:creator>こころ</dc:creator>
<dc:date>2007-04-29T23:29:31+09:00</dc:date>
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三の七<br /><br />　代助の父（ちゝ）には一人（ひとり）の兄（あに）があつた。直記（なほき）と云つて、父（ちゝ）とはたつた一つ違ひの年上（としうへ）だが、父（ちゝ）よりは小柄（こがら）なうへに、顔付（かほつき）眼鼻立（めはなだち）が非常に似（に）てゐたものだから、知らない人には往々双子（ふたご）と間違へられた。其折は父も得（とく）とは云はなかつた。誠之進といふ幼名で通（とほ）つてゐた。<br />　直記（なほき）と誠之進とは外貌のよく似てゐた如く、気質（きだて）も本当の兄弟であつた。両方に差支のあるときは特別、都合さへ付けば、同じ所に食（く）つ付き合つて、同じ事をして暮してゐた。稽古も同時同刻に往き返りをする。読書にも一つ燈火（ともしび）を分つた位親（した）しかつた。<br />　丁度直記（なほき）の十八の秋（あき）であつた。ある時二人（ふたり）は城下外（じやうかはづれ）の等覚寺といふ寺へ親（おや）の使に行つた。これは藩主の菩提寺で、そこにゐる楚水といふ坊さんが、二人（ふたり）の親（おや）とは昵近（じつこん）なので、用の手紙を、此楚水さんに渡しに行つたのである。用は囲碁の招待か何かで返事にも及ばない程簡略なものであつたが、楚水さんに留（と）められて、色々話してゐるうちに遅（おそ）くなつて、日の暮れる一時間程前に漸く寺を出た。その日は何か祭のある折で、市中（しちう）は大分雑沓してゐた。二人（ふたり）は群集のなかを急いで帰る拍子に、ある横町を曲らうとする角（かど）で、川向ひの方限（ほうぎ）りの某（なにがし）といふものに突き当つた。此某（なにがし）と二人（ふたり）とは、かねてから仲（なか）が悪（わる）かつた。其時某（なにがし）は大分酒気を帯びてゐたと見えて、二言三言（ふたことみこと）いひ争ふうちに刀（かたな）を抜（ぬ）いて、いきなり斬り付（つ）けた。斬り付（つ）けられた方は兄（あに）であつた。已を得ず是も腰の物を抜（ぬ）いて立ち向つたが、相手は平生から極めて評判のわるい乱暴もの丈あつて、酩酊してゐるにも拘はらず、強かつた。黙（だま）つてゐれば兄の方が負ける。そこで弟も刀を抜いた。さうして二人（ふたり）で滅茶苦茶に相手を斬り殺して仕舞つた。<br />　其頃（ころ）の習慣として、侍（さむらひ）が侍（さむらひ）を殺せば、殺した方が切腹をしなければならない。兄弟は其覚悟で家（うち）へ帰つて来（き）た。父（ちゝ）も二人（ふたり）を並べて置いて順々に自分で介錯をする気であつた。所が母（はゝ）が生憎祭（まつり）で知己（ちかづき）の家（うち）へ呼（よ）ばれて留守である。父は二人（ふたり）に切腹をさせる前、もう一遍母（はゝ）に逢（あ）はしてやりたいと云ふ人情から、すぐ母（はゝ）を迎にやつた。さうして母の来（く）る間（あひだ）、二人（ふたり）に訓戒を加へたり、或は切腹する座敷の用意をさせたり可成愚図々々してゐた。<br />　母（はゝ）の客に行つてゐた所は、その遠縁（とほえん）にあたる高木（たかぎ）といふ勢力家であつたので、大変都合が好（よ）かつた。と云ふのは、其頃は世の中（なか）の動（うご）き掛けた当時で、侍（さむらひ）の掟（おきて）も昔の様には厳重に行はれなかつた。殊更殺された相手は評判の悪い無頼の青年であつた。ので高木は母とともに長井の家（いへ）へ来（き）て、何分の沙汰が公向（おもてむき）からある迄は、当分其儘にして、手を着けずに置くやうにと、父を諭（さと）した。<br />　高木はそれから奔走を始めた。さうして第一に家老を説き付けた。それから家老を通して藩主を説き付けた。殺された某（なにがし）の親（おや）は又、存外訳の解（わか）つた人で、平生から倅（せがれ）の行跡（ぎやうせき）の良くないのを苦に病んでゐたのみならず、斬り付けた当時も、此方（こつち）から狼藉をしかけたと同然であるといふ事が明瞭になつたので、兄弟を寛大に処分する運動に就ては別段の苦情を持ち出さなかつた。兄弟はしばらく一間（ひとま）の内（うち）に閉ぢ籠つて、謹慎の意を表して後、二人（ふたり）とも人（ひと）知れず家（いへ）を捨（す）てた。<br />　三年の後兄（あに）は京都で浪士に殺された。四年目に天下が明治となつた。又五六年してから、誠之進は両親を国元から東京へ呼び寄せた。さうして妻を迎へて、得（とく）といふ一字名（な）になつた。其時は自分の命（いのち）を助けてくれた高木はもう死んで、養子の代になつてゐた。東京へ出て仕官の方法でも講じたらと思つて色々勧めて見たが応じなかつた。此養子に子供が二人（ふたり）あつて、男の方は京都へ出て同志社へ這入（はい）つた。其所（そこ）を卒業してから、長らく亜米利加に居つたさうだが、今では神戸で実業に従事して、相当の資産家になつてゐる。女の方は県下の多額納税者の所へ嫁（よめ）に行つた。代助の細君の候補者といふのは此多額納税者の娘である。<br />「大変込み入つてるのね。私（わたし）驚ろいちまつた」と嫂（あによめ）が代助に云つた。<br />「御父（おとう）さんから何返も聞いてるぢやありませんか」<br />「だつて、何時（いつ）もは御嫁（よめ）の話（はなし）が出（で）ないから、好（い）い加減に聞いてるのよ」<br />「佐川（さがは）にそんな娘があつたのかな。僕も些（ち）つとも知らなかつた」<br />「御貰（おもらひ）なさいよ」<br />「賛成なんですか」<br />「賛成ですとも。因念つきぢやありませんか」<br />「先祖の拵らえた因念よりも、まだ自分の拵えた因念で貰ふ方が貰（もら）ひ好（い）い様だな」<br />「おや、左様（そん）なのがあるの」<br />　代助は苦笑して答へなかつた。<a name="more"></a>

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<dc:date>2007-04-29T23:29:31+09:00</dc:date>
<dc:creator>ads by Seesaa</dc:creator>
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<title>それから 三の六</title>
<description>三の六 代助は一寸（ちよつと）話（はなし）を已（や）めて、梅子（うめこ）の肩越（かたごし）に、窓掛（まどかけ）の間（あひだ）から、奇麗な空（そら）を透（す）かす様に見てゐた。遠くに大きな樹（き）が一本ある。薄茶色（うすちやいろ）の芽（め）を全体に吹いて、柔（やわ）らかい梢（こづえ）の端（はじ）が天（てん）に接（つゞ）く所は、糠雨（ぬかあめ）で暈（ぼか）されたかの如くに霞（かす）んでゐる。「好（い）い気候になりましたね。何所（どこ）か御花見にでも行きませうか」「行きませう。行く...</description>
<dc:subject>それから</dc:subject>
<dc:creator>こころ</dc:creator>
<dc:date>2007-04-28T16:52:49+09:00</dc:date>
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三の六<br /><br />　代助は一寸（ちよつと）話（はなし）を已（や）めて、梅子（うめこ）の肩越（かたごし）に、窓掛（まどかけ）の間（あひだ）から、奇麗な空（そら）を透（す）かす様に見てゐた。遠くに大きな樹（き）が一本ある。薄茶色（うすちやいろ）の芽（め）を全体に吹いて、柔（やわ）らかい梢（こづえ）の端（はじ）が天（てん）に接（つゞ）く所は、糠雨（ぬかあめ）で暈（ぼか）されたかの如くに霞（かす）んでゐる。<br />「好（い）い気候になりましたね。何所（どこ）か御花見にでも行きませうか」<br />「行きませう。行くから仰（おつ）しやい」<br />「何（なに）を」<br />「御父（おとう）さまから云はれた事を」<br />「云はれた事は色々あるんですが、秩序立（ちつじよだ）てて繰（く）り返（かへ）すのは困るですよ。頭（あたま）が悪（わる）いんだから」<br />「まだ空（そら）つとぼけて居（ゐ）らつしやる。ちやんと知つてますよ」<br />「ぢや、伺（うかゞ）ひませうか」<br />　梅子は少しつんとした。<br />「貴方（あなた）は近頃余つ程減（へ）らず口（ぐち）が達者におなりね」<br />「何（なに）、姉（ねえ）さんが辟易する程ぢやない。――時に今日（けふ）は大変静かですね。どうしました、小供達は」<br />「小供は学校です」<br />　十六七の小間使（こまづかひ）が戸（と）を開（あ）けて顔（かほ）を出した。あの、旦那様が、奥様に一寸（ちよつと）電話口（ぐち）迄と取り次（つ）いだなり、黙つて梅子の返事を待つてゐる。梅子はすぐ立つた。代助も立つた。つゞいて客間（きやくま）を出やうとすると、梅子は振り向いた。<br />「あなたは、其所（そこ）に居（ゐ）らつしやい。少し話しがあるから」<br />　代助には嫂（あによめ）のかう云ふ命令的の言葉が何時（いつ）でも面白く感ぜられる。御緩（ごゆつくり）と見送つた儘、又腰を掛けて、再び例の画を眺め出（だ）した。しばらくすると、其色が壁（かべ）の上に塗り付けてあるのでなくつて、自分の眼球（めだま）の中（なか）から飛び出して、壁（かべ）の上（うへ）へ行つて、べた／＼喰（く）つ付（つ）く様に見えて来（き）た。仕舞には眼球（めだま）から色を出す具合一つで、向ふにある人物樹木が、此方（こちら）の思ひ通りに変化出来る様になつた。代助はかくして、下手（へた）な個所々々を悉く塗り更（か）へて、とう／＼自分の想像し得（う）る限りの尤も美くしい色彩に包囲されて、恍惚と坐（すは）つてゐた。所へ梅子（うめこ）が帰つて来（き）たので、忽ち当り前の自分に戻つて仕舞つた。<br />　梅子の用事と云ふのを改まつて聞いて見ると、又例の縁談の事であつた。代助は学校を卒業する前から、梅子の御蔭で写真実物色々な細君の候補者に接した。けれども、何（い）づれも不合格者ばかりであつた。始めのうちは体裁の好（い）い逃（にげ）口上で断わつてゐたが、二年程前からは、急に図迂（づう）々々しくなつて、屹度相手にけちを付ける。口（くち）と顎（あご）の角度が悪（わる）いとか、眼（め）の長さが顔の幅（はゞ）に比例しないとか、耳の位置が間違（まちが）つてるとか、必ず妙な非難を持つて来（く）る。それが悉く尋常な言草（いひぐさ）でないので、仕舞には梅子も少々考へ出した。是は必竟世話を焼き過ぎるから、付け上つて、人を困（こま）らせるのだらう。当分打遣（うつちや）つて置いて、向ふから頼み出させるに若（し）くはない。と決心して、夫からは縁談の事をついぞ口（くち）にしなくなつた。所が本人は一向困つた様子もなく、依然として海のものとも、山のものとも見当が付かない態度で今日迄暮（くら）して来（き）た。<br />　其所（そこ）へ親爺（おやぢ）が甚だ因念の深（ふか）いある候補者を見付けて、旅行先（さき）から帰つた。梅子は代助の来（く）る二三日前に、其話を親爺（おやぢ）から聞かされたので、今日（けふ）の会談は必ずそれだらうと推したのである。然し代助は実際老人から結婚問題に付いては、此日（このひ）何にも聞（き）かなかつたのである。老人は或はそれを披露する気で、呼んだのかも知れないが、代助の態度を見て、もう少し控えて置く方が得策だといふ了見を起した結果、故意（わざ）と話題を避けたとも取れる。<br />　此候補者に対して代助は一種特殊な関係を有（も）つてゐた。候補者の姓は知つてゐる。けれど名は知らない。年齢、容貌、教育、性質に至つては全く知らない。何故（なぜ）その女が候補者に立つたと云ふ因念になると又能く知つて居る。<a name="more"></a>

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<title>それから三の五</title>
<description> それから約四十分程して、老人は着物（きもの）を着換（きか）えて、袴（はかま）を穿（は）いて、俥（くるま）に乗（の）つて、何処（どこ）かへ出（で）て行（い）つた。代助も玄関迄送つて出たが、又引き返して客間（きやくま）の戸を開けて中（なか）へ這入（はい）つた。是（これ）は近頃（ちかごろ）になつて建（た）て増した西洋作りで、内部の装飾其他の大部分は、代助の意匠に本（もと）づいて、専門家へ注文して出来上つたものである。</description>
<dc:subject>それから</dc:subject>
<dc:creator>こころ</dc:creator>
<dc:date>2007-02-08T23:10:48+09:00</dc:date>
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　それから約四十分程して、老人は着物（きもの）を着換（きか）えて、袴（はかま）を穿（は）いて、俥（くるま）に乗（の）つて、何処（どこ）かへ出（で）て行（い）つた。代助も玄関迄送つて出たが、又引き返して客間（きやくま）の戸を開けて中（なか）へ這入（はい）つた。是（これ）は近頃（ちかごろ）になつて建（た）て増した西洋作りで、内部の装飾其他の大部分は、代助の意匠に本（もと）づいて、専門家へ注文して出来上つたものである。<a name="more"></a>ことに欄間（らんま）の周囲に張つた模様画は、自分の知り合ひの去る画家に頼（たの）んで、色々相談の揚句（あげく）に成つたものだから、特更興味が深い。代助は立ちながら、画巻物（ゑまきもの）を展開（てんかい）した様な、横長（よこなが）の色彩（しきさい）を眺めてゐたが、どう云ふものか、此前（このまへ）来（き）て見た時よりは、痛（いた）く見劣りがする。是では頼（たの）もしくないと思ひながら、猶局部々々に眼（め）を付（つ）けて吟味してゐると、突然嫂（あによめ）が這入つて来た。<br />「おや、此所（こゝ）に入（い）らつしやるの」と云つたが、「一寸（ちよいと）其所（そこい）らに私（わたくし）の櫛（くし）が落ちて居（ゐ）なくつて」と聞いた。櫛（くし）は長椅子（ソーフア）の足（あし）の所（ところ）にあつた。昨日（きのふ）縫子（ぬひこ）に貸（か）して遣（や）つたら、何所（どこ）かへ失（なく）なして仕舞つたんで、探（さが）しに来（き）たんださうである。両手で頭（あたま）を抑へる様にして、櫛（くし）を束髪の根方（ねがた）へ押し付けて、上眼（うはめ）で代助を見ながら、<br />「相変らず茫乎（ぼんやり）してるぢやありませんか」と調戯（からか）つた。<br />「御父（おとう）さんから御談義を聞（き）かされちまつた」<br />「また？　能く叱（しか）られるのね。御帰り匆々、随分気が利かないわね。然し貴方（あなた）もあんまり、好（よ）かないわ。些とも御父（おとう）さんの云ふ通りになさらないんだもの」<br />「御父（おとう）さんの前で議論なんかしやしませんよ。万事控え目に大人しくしてゐるんです」<br />「だから猶始末が悪（わる）いのよ。何か云ふと、へい／＼つて、さうして、些（ちつ）とも云ふ事を聞かないんだもの」<br />　代助は苦笑して黙（だま）つて仕舞つた。梅子（うめこ）は代助の方へ向いて、椅子へ腰を卸した。脊（せい）のすらりとした、色の浅黒い、眉の濃（こ）い、唇の薄い女である。<br />「まあ、御掛（おか）けなさい。少し話し相手になつて上（あ）げるから」<br />　代助は矢っ張り立つた儘、嫂（あによめ）の姿（すがた）を見守つてゐた。<br />「今日（けふ）は妙な半襟（はんえり）を掛けてますね」<br />「これ？」<br />　梅子は顎（あご）を縮（ちゞ）めて、八の字を寄せて、自分の襦袢の襟を見やうとした。<br />「此間（こないだ）買つたの」<br />「好（い）い色だ」<br />「まあ、そんな事は、何（ど）うでも可（い）いから、其所（そこ）へ御掛（おか）けなさいよ」<br />　代助は嫂（あによめ）の真（ま）正面へ腰を卸した。<br />「へえ掛（か）けました」<br />「一体（いつたい）今日（けふ）は何を叱（しか）られたんです」<br />「何を叱（しか）られたんだか、あんまり要領を得ない。然し御父（おとう）さんの国家社会の為（ため）に尽すには驚ろいた。何でも十八の年（とし）から今日迄（こんにちまで）のべつに尽（つく）してるんだつてね」<br />「それだから、あの位に御成りになつたんぢやありませんか」<br />「国家社会の為に尽（つく）して、金（かね）が御父（おとう）さん位儲かるなら、僕も尽（つく）しても好（い）い」<br />「だから遊んでないで、御尽（つく）しなさいな。貴方（あなた）は寐てゐて御金（おかね）を取（と）らうとするから狡猾よ」<br />「御金（おかね）を取らうとした事は、まだ有（あ）りません」<br />「取（と）らうとしなくつても、使（つか）ふから同（おんな）じぢやありませんか」<br />「兄（にい）さんが何（なん）とか云つてましたか」<br />「兄（にい）さんは呆（あき）れてるから、何とも云やしません」<br />「随分猛烈だな。然し御父（おとう）さんより兄（にい）さんの方が偉（えら）いですね」<br />「何（ど）うして。――あら悪（にく）らしい、又あんな御世辞を使つて。貴方（あなた）はそれが悪（わる）いのよ。真面目（まじめ）な顔をして他（ひと）を茶化すから」<br />「左様（そん）なもんでせうか」<br />「左様（そん）なもんでせうかつて、他（ひと）の事ぢやあるまいし。少（すこ）しや考へて御覧なさいな」<br />「何（ど）うも此所（こゝ）へ来（く）ると、丸で門野（かどの）と同（おんな）じ様になつちまふから困（こま）る」<br />「門野（かどの）つて何（なん）です」<br />「なに宅（うち）にゐる書生ですがね。人（ひと）に何か云はれると、屹度左様（そん）なもんでせうか、とか、左様（さう）でせうか、とか答へるんです」<br />「あの人が？　余っ程妙なのね」

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<dc:date>2007-02-08T23:10:48+09:00</dc:date>
<dc:creator>ads by Seesaa</dc:creator>
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<title>それから三の四</title>
<description>「身体（からだ）は丈夫だね」「二三年このかた風邪（かぜ）を引（ひ）いた事（こと）もありません」「頭（あたま）も悪（わる）い方ぢやないだらう。学校の成蹟も可（か）なりだつたんぢやないか」「まあ左様（さう）です」「夫（それ）で遊（あそ）んでゐるのは勿体ない。あの何とか云つたね、そら御前（おまへ）の所へ善（よ）く話しに来（き）た男があるだらう。己（おれ）も一二度逢つたことがある」「平岡ですか」</description>
<dc:subject>それから</dc:subject>
<dc:creator>こころ</dc:creator>
<dc:date>2006-11-22T19:01:04+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
「身体（からだ）は丈夫だね」<br />「二三年このかた風邪（かぜ）を引（ひ）いた事（こと）もありません」<br />「頭（あたま）も悪（わる）い方ぢやないだらう。学校の成蹟も可（か）なりだつたんぢやないか」<br />「まあ左様（さう）です」<br />「夫（それ）で遊（あそ）んでゐるのは勿体ない。あの何とか云つたね、そら御前（おまへ）の所へ善（よ）く話しに来（き）た男があるだらう。己（おれ）も一二度逢つたことがある」<br />「平岡ですか」<br /><a name="more"></a>「さう平岡。あの人なぞは、あまり出来の可（い）い方ぢやなかつたさうだが、卒業すると、すぐ何処（どこ）かへ行つたぢやないか」<br />「其代り失敗（しくじつ）て、もう帰（かへ）つて来（き）ました」<br />　老人は苦笑を禁じ得なかつた。<br />「どうして」と聞いた。<br />「詰（つま）り食（く）ふ為（ため）に働（はた）らくからでせう」<br />　老人には此意味が善（よ）く解（わか）らなかつた。<br />「何（なに）か面白くない事でも遣（や）つたのかな」と聞き返した。<br />「其場合々々で当然の事を遣るんでせうけれども、其当然が矢っ張り失敗（しくじり）になるんでせう」<br />「はあゝ」と気の乗らない返事をしたが、やがて調子を易（か）へて、説き出した。<br />「若い人がよく失敗（しくじる）といふが、全く誠実と熱心が足りないからだ。己（おれ）も多年の経験で、此年（このとし）になる迄遣（や）つて来（き）たが、どうしても此二つがないと成功しないね」<br />「誠実と熱心があるために、却つて遣り損ふこともあるでせう」<br />「いや、先（まづ）ないな」<br />　親爺（おやぢ）の頭（あたま）の上（うへ）に、誠者天之道也と云ふ額が麗々と掛けてある。先代の旧藩主に書いて貰つたとか云つて、親爺（おやぢ）は尤も珍重してゐる。代助は此額が甚だ嫌である。第一字が嫌だ。其上文句が気に喰はない。誠は天の道なりの後（あと）へ、人の道にあらずと附け加へたい様な心持がする。<br />　其昔し藩の財政が疲弊して、始末が付かなくなつた時、整理の任に当つた長井は、藩侯に縁故のある町人を二三人呼び集めて、刀（かたな）を脱いで其前に頭（あたま）を下（さ）げて、彼等に一時の融通を頼んだ事がある。固より返（かへ）せるか、返せないか、分らなかつたんだから、分らないと真直に自白して、それがために其時成功した。その因縁で此額（がく）を藩主に書（か）いて貰（もら）つたんである。爾来長井は何時（いつ）でも、之を自分の居間（ゐま）に掛けて朝夕眺めてゐる。代助は此額の由来を何遍聞（き）かされたか知れない。<br />　今から十五六年前に、旧藩主の家（いへ）で、月々（つき／″＼）の支出が嵩（かさ）んできて、折角持ち直した経済が又崩（くづ）れ出した時にも、長井は前年の手腕によつて、再度の整理を委託された。其時長井は自分で風呂の薪（まき）を焚いて見（み）て、実際の消費高（だか）と帳面づらの消費高（だか）との差違から調（しら）べにかゝつたが、終日終夜この事丈に精魂を打ち込んだ結果は、約一ヶ月内に立派な方法を立て得るに至つた。それより以後藩主の家では比較的豊かな生計（くらし）をしてゐる。<br />　斯う云ふ過去の歴史を持つてゐて、此過去の歴史以外には、一歩も踏み出して考へる事を敢てしない長井は、何（なん）によらず、誠実と熱心へ持つて行きたがる。<br />「御前は、どう云ふものか、誠実と熱心が欠けてゐる様だ。それぢや不可ん。だから何にも出来ないんだ」<br />「誠実も熱心もあるんですが、たゞ人事上に応用出来ないんです」<br />「何（ど）う云ふ訳で」<br />　代助は又返答に窮した。代助の考によると、誠実だらうが、熱心だらうが、自分が出来合（できあひ）の奴（やつ）を胸に蓄（たく）はへてゐるんぢやなくつて、石と鉄と触れて火花（ひばな）の出（で）る様に、相手次第で摩擦の具合がうまく行けば、当事者二人（ににん）の間に起るべき現象である。自分の有する性質と云ふよりは寧ろ精神の交換作用である。だから相手が悪（わる）くつては起（おこ）り様がない。<br />「御父（おとう）さんは論語だの、王陽明だのといふ、金（きん）の延金（のべがね）を呑（の）んで入らつしやるから、左様（さう）いふ事を仰しやるんでせう」<br />「金（きん）の延金（のべがね）とは」<br />　代助はしばらく黙（だま）つてゐたが、漸やく、<br />「延金（のべがね）の儘出（で）て来（く）るんです」と云つた。長井は、書物癖のある、偏窟な、世慣れない若輩のいひたがる不得要領の警句として、好奇心のあるにも拘はらず、取り合ふ事を敢てしなかつた。

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<title>それから三の三</title>
<description> 代助は今（いま）此（この）親爺（おやぢ）と対坐してゐる。廂（ひさし）の長い小（ちい）さな部屋なので、居（ゐ）ながら庭（には）を見ると、廂（ひさし）の先（さき）で庭（には）が仕切（しき）られた様な感がある。少（すく）なくとも空（そら）は広（ひろ）く見えない。其代り静（しづ）かで、落ち付いて、尻（しり）の据（すわ）り具合が好（い）い。</description>
<dc:subject>それから</dc:subject>
<dc:creator>こころ</dc:creator>
<dc:date>2006-11-22T18:56:26+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
　代助は今（いま）此（この）親爺（おやぢ）と対坐してゐる。廂（ひさし）の長い小（ちい）さな部屋なので、居（ゐ）ながら庭（には）を見ると、廂（ひさし）の先（さき）で庭（には）が仕切（しき）られた様な感がある。少（すく）なくとも空（そら）は広（ひろ）く見えない。其代り静（しづ）かで、落ち付いて、尻（しり）の据（すわ）り具合が好（い）い。<br /><a name="more"></a>　親爺（おやぢ）は刻（きざ）み烟草（たばこ）を吹（ふ）かすので、手（て）のある長い烟草盆を前へ引き付けて、時々（とき／″＼）灰吹（はいふき）をぽん／＼と叩（たゝ）く。それが静かな庭（には）へ響いて好（い）い音（おと）がする。代助の方は金（きん）の吸口（すひくち）を四五本手烙（てあぶり）の中（なか）へ並（なら）べた。もう鼻（はな）から烟（けむ）を出すのが厭（いや）になつたので、腕組（うでぐみ）をして親爺（おやぢ）の顔（かほ）を眺（なが）めてゐる。其顔（かほ）には年（とし）の割に肉（にく）が多い。それでゐて頬（ほゝ）は痩（こ）けてゐる。濃（こ）い眉（まゆ）の下（した）に眼（め）の皮（かは）が弛（たる）んで見える。髭（ひげ）は真白（まつしろ）と云はんよりは、寧ろ黄色（きいろ）である。さうして、話（はなし）をするときに相手（あいて）の膝頭（ひざがしら）と顔（かほ）とを半々（はん／＼）に見較べる癖（くせ）がある。其時の眼（め）の動（うご）かし方（かた）で、白眼（しろめ）が一寸（ちよつと）ちらついて、相手（あいて）に妙な心持（もち）をさせる。<br />　老人（ろうじん）は今（いま）斯んな事を云つてゐる。――<br />「さう人間（にんげん）は自分丈を考へるべきではない。世の中（なか）もある。国家もある。少しは人（ひと）の為（ため）に何（なに）かしなくつては心持のわるいものだ。御前だつて、さう、ぶら／＼してゐて心持の好（い）い筈はなからう。そりや、下等社会の無教育のものなら格別だが、最高の教育を受けたものが、決して遊んで居て面白い理由がない。学んだものは、実地に応用して始めて趣味が出（で）るものだからな」<br />「左様（さう）です」と代助は答へてゐる。親爺（おやぢ）から説法されるたんびに、代助は返答に窮するから好加減な事を云ふ習慣になつてゐる。代助に云はせると、親爺（おやぢ）の考は、万事中途半端（ちうとはんぱ）に、或物（あるもの）を独り勝手に断定してから出立するんだから、毫も根本的の意義を有してゐない。しかのみならず、今利他本位でやつてるかと思ふと、何時（いつ）の間（ま）にか利己本位に変つてゐる。言葉丈は滾々として、勿体らしく出るが、要するに端倪すべからざる空談（くうだん）である。それを基礎から打ち崩して懸（か）かるのは大変な難事業だし、又必竟出来ない相談だから、始めより成るべく触（さは）らない様にしてゐる。所が親爺（おやぢ）の方では代助を以て無論自己の太陽系に属すべきものと心得てゐるので、自己は飽までも代助の軌道を支配する権利があると信じて押して来（く）る。そこで代助も已を得ず親爺（おやぢ）といふ老太陽の周囲を、行儀よく廻転する様に見せてゐる。<br />「それは実業が厭（いや）なら厭（いや）で好（い）い。何も金（かね）を儲ける丈が日本の為（ため）になるとも限るまいから。金（かね）は取（と）らんでも構（かま）はない。金（かね）の為（ため）に兎や角云ふとなると、御前も心持がわるからう。金（かね）は今迄通り己（おれ）が補助して遣（や）る。おれも、もう何時（いつ）死（し）ぬか分（わか）らないし、死（し）にや金（かね）を持つて行く訳にも行（い）かないし。月々（つき／″＼）御前の生計（くらし）位どうでもしてやる。だから奮発して何か為（す）るが好（い）い。国民の義務としてするが好（い）い。もう三十だらう」<br />「左様（さう）です」<br />「三十になつて遊民として、のらくらしてゐるのは、如何にも不体裁だな」<br />　代助は決してのらくらして居（ゐ）るとは思はない。たゞ職業の為（ため）に汚（けが）されない内容の多い時間を有する、上等人種と自分を考へてゐる丈である。親爺（おやぢ）が斯んな事を云ふたびに、実は気の毒になる。親爺（おやぢ）の幼稚な頭脳には、かく有意義に月日（つきひ）を利用しつゝある結果が、自己の思想情操の上に、結晶して吹き出（だ）してゐるのが、全く映（うつ）らないのである。仕方がないから、真面目（まじめ）な顔をして、<br />「えゝ、困ります」と答へた。老人（ろうじん）は頭（あたま）から代助を小僧視してゐる上（うへ）に、其返事が何時（いつ）でも幼気（おさなげ）を失はない、簡単な、世帯離（しよたいばな）れをした文句だものだから、馬鹿（ばか）にするうちにも、どうも坊ちやんは成人しても仕様がない、困つたものだと云ふ気になる。さうかと思ふと、代助の口調が如何にも平気で、冷静で、はにかまず、もぢ付（つ）かず尋常極まつてゐるので、此奴（こいつ）は手の付け様がないといふ気にもなる。

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<title>それから三の二</title>
<description> 代助の尤（もつと）も応（こた）へるのは親爺（おやぢ）である。好（い）い年（とし）をして、若（わか）い妾（めかけ）を持（も）つてゐるが、それは構（かま）はない。代助から云（い）ふと寧ろ賛成な位なもので、彼（かれ）は妾（めかけ）を置く余裕のないものに限（かぎ）つて、蓄妾（ちくしよう）の攻撃をするんだと考へてゐる。親爺（おやぢ）は又大分（だいぶ）の八釜（やかま）し屋（や）である。小供のうちは心魂（しんこん）に徹（てつ）して困却した事がある。しかし成人（せいじん）の今日（こんにち）...</description>
<dc:subject>それから</dc:subject>
<dc:creator>こころ</dc:creator>
<dc:date>2006-11-22T18:53:34+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
　代助の尤（もつと）も応（こた）へるのは親爺（おやぢ）である。好（い）い年（とし）をして、若（わか）い妾（めかけ）を持（も）つてゐるが、それは構（かま）はない。代助から云（い）ふと寧ろ賛成な位なもので、彼（かれ）は妾（めかけ）を置く余裕のないものに限（かぎ）つて、蓄妾（ちくしよう）の攻撃をするんだと考へてゐる。親爺（おやぢ）は又大分（だいぶ）の八釜（やかま）し屋（や）である。小供のうちは心魂（しんこん）に徹（てつ）して困却した事がある。しかし成人（せいじん）の今日（こんにち）では、それにも別段辟易する必要を認（みと）めない。たゞ応（こた）へるのは、自分の青年時代と、代助の現今とを混同して、両方共大（たい）した変りはないと信じてゐる事である。<a name="more"></a>それだから、自分の昔し世に処（しよ）した時の心掛（こゝろが）けでもつて、代助も遣（や）らなくつては、嘘（うそ）だといふ論理になる。尤も代助の方では、何（なに）が嘘（うそ）ですかと聞き返した事がない。だから決して喧嘩にはならない。代助は小供の頃非常な肝癪持で、十八九の時分親爺（おやぢ）と組打をした事が一二返ある位だが、成長して学校を卒業して、しばらくすると、此肝癪がぱたりと已（や）んで仕舞つた。それから以後ついぞ怒（おこ）つた試（ため）しがない。親爺（おやぢ）はこれを自分の薫育の効果と信じてひそかに誇（ほこ）つてゐる。<br />　実際を云ふと親爺（おやぢ）の所謂薫育は、此父子の間（あひだ）に纏綿する暖（あたゝ）かい情味を次第に冷却せしめた丈である。少なくとも代助はさう思つてゐる。所が親爺（おやぢ）の腹のなかでは、それが全く反対（あべこべ）に解釈されて仕舞つた。何（なに）をしやうと血肉（けつにく）の親子（おやこ）である。子が親（おや）に対する天賦の情合（あひ）が、子を取扱ふ方法の如何に因つて変る筈（はづ）がない。教育の為（た）め、少しの無理はしやうとも、其結果は決して骨肉の恩愛に影響を及ぼすものではない。儒教の感化を受けた親爺（おやぢ）は、固く斯う信じてゐた。自分が代助に存在を与へたといふ単純な事実が、あらゆる不快苦痛に対して、永久愛情の保証になると考へた親爺（おやぢ）は、その信念をもつて、ぐん／＼押して行つた。さうして自分に冷淡な一個の息子（むすこ）を作り上（あ）げた。尤も代助の卒業前後からは其待遇法も大分変つて来（き）て、ある点から云へば、驚ろく程寛大になつた所もある。然しそれは代助が生（うま）れ落ちるや否や、此親爺（おやぢ）が代助に向つて作つたプログラムの一部分の遂行に過ぎないので、代助の心意の変移を見抜いた適宜の処置ではなかつたのである。自分の教育が代助に及ぼした悪結果に至つては、今に至つて全く気が付かずにゐる。<br />　親爺（おやぢ）は戦争に出（で）たのを頗る自慢にする。稍（やゝ）もすると、御前（まへ）抔はまだ戦争をした事がないから、度胸が据（すわ）らなくつて不可（いか）んと一概にけなして仕舞ふ。恰も度胸が人間（にんげん）至上な能力であるかの如き言草（いひぐさ）である。代助はこれを聞（き）かせられるたんびに厭（いや）な心持がする。胆力は命（いのち）の遣（や）り取（と）りの劇（はげ）しい、親爺（おやぢ）の若い頃の様な野蛮時代にあつてこそ、生存に必要な資格かも知れないが、文明の今日から云へば、古風な弓術撃剣の類（たぐひ）と大差はない道具と、代助は心得てゐる。否、胆力とは両立し得ないで、しかも胆力以上に難有がつて然るべき能力が沢山ある様に考へられる。御父（おとう）さんから又胆力の講釈を聞いた。御父（おとう）さんの様に云ふと、世の中（なか）で石地蔵が一番偉（えら）いことになつて仕舞ふ様だねと云つて、嫂（あによめ）と笑つた事がある。<br />　斯う云ふ代助は無論臆病である。又臆病で恥づかしいといふ気は心（しん）から起らない。ある場合には臆病を以て自任したくなる位である。子供の時、親爺（おやぢ）の使嗾で、夜中（よなか）にわざ／＼青山（あをやま）の墓地迄出掛けた事がある。気味のわるいのを我慢して一時間も居たら、たまらなくなつて、蒼青な顔をして家（うち）へ帰つて来（き）た。其折は自分でも残念に思つた。あくる朝（あさ）親爺（おやぢ）に笑はれたときは、親爺（おやぢ）が憎（にく）らしかつた。親爺（おやぢ）の云ふ所によると、彼（かれ）と同時代の少年は、胆力修養の為（た）め、夜半（やはん）に結束（けつそく）して、たつた一人（ひとり）、御城（しろ）の北（きた）一里にある剣（つるぎ）が峰（みね）の天頂（てつぺん）迄登（のぼ）つて、其所（そこ）の辻堂で夜明（よあかし）をして、日の出（で）を拝（おが）んで帰（かへ）つてくる習慣であつたさうだ。今の若いものとは心得方（かた）からして違ふと親爺が批評した。<br />　斯んな事を真面目（まじめ）に口（くち）にした、又今でも口（くち）にしかねまじき親爺（おやぢ）は気の毒なものだと、代助は考へる。彼は地震が嫌（きらひ）である。瞬間の動揺でも胸（むね）に波（なみ）が打（う）つ。あるときは書斎で凝（じつ）と坐（すは）つてゐて、何かの拍子に、あゝ地震が遠くから寄せて来（く）るなと感ずる事がある。すると、尻の下に敷（し）いてゐる坐蒲団も、畳（たゝみ）も、乃至床（ゆか）板も明らかに震（ふる）へる様に思はれる。彼（かれ）はこれが自分の本来だと信じてゐる。親爺（おやぢ）の如きは、神経未熟（みじゆく）の野人か、然らずんば己（おの）れを偽（いつ）はる愚者としか代助には受け取れないのである。

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<title>それから三の一</title>
<description> 代助（だいすけ）の父（ちゝ）は長井得（ながゐとく）といつて、御維新のとき、戦争に出（で）た経験のある位な老人であるが、今でも至極達者に生きてゐる。役人を已（や）めてから、実業界に這入つて、何（なに）か彼（かに）かしてゐるうちに、自然と金が貯（たま）つて、此十四五年来は大分（だいぶん）の財産家になつた。 誠吾（せいご）と云ふ兄（あに）がある。学校を卒業してすぐ、父（ちゝ）の関係してゐる会社へ出（で）たので、今では其所（そこ）で重要な地位を占める様になつた。梅子といふ夫人に、二...</description>
<dc:subject>それから</dc:subject>
<dc:creator>こころ</dc:creator>
<dc:date>2006-11-22T18:49:55+09:00</dc:date>
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　代助（だいすけ）の父（ちゝ）は長井得（ながゐとく）といつて、御維新のとき、戦争に出（で）た経験のある位な老人であるが、今でも至極達者に生きてゐる。役人を已（や）めてから、実業界に這入つて、何（なに）か彼（かに）かしてゐるうちに、自然と金が貯（たま）つて、此十四五年来は大分（だいぶん）の財産家になつた。<br />　誠吾（せいご）と云ふ兄（あに）がある。学校を卒業してすぐ、父（ちゝ）の関係してゐる会社へ出（で）たので、今では其所（そこ）で重要な地位を占める様になつた。梅子といふ夫人に、二人（ふたり）の子供（こども）が出来た。兄は誠太郎と云つて十五になる。妹は縫（ぬひ）といつて三つ違である。<br /><a name="more"></a>　誠吾（せいご）の外に姉がまだ一人（ひとり）あるが、是はある外交官に嫁いで、今は夫（おつと）と共に西洋にゐる。誠吾（せいご）と此姉の間にもう一人（ひとり）、それから此姉と代助の間にも、まだ一人（ひとり）兄弟があつたけれども、それは二人（ふたり）とも早く死んで仕舞つた。母も死んで仕舞つた。<br />　代助の一家（いつけ）は是丈の人数（にんず）から出来上（できあが）つてゐる。そのうちで外（そと）へ出（で）てゐるものは、西洋に行つた姉と、近頃（ちかごろ）一戸を構へた代助ばかりだから、本家（ほんけ）には大小合せて四人（よつたり）残る訳になる。<br />　代助は月に一度（いちど）は必ず本家（ほんけ）へ金（かね）を貰ひに行く。代助は親（おや）の金（かね）とも、兄（あに）の金ともつかぬものを使（つか）つて生きてゐる。月（つき）に一度の外（ほか）にも、退屈になれば出掛けて行く。さうして子供に調戯（からか）つたり、書生と五目並（ごもくならべ）をしたり、嫂（あによめ）と芝居の評をしたりして帰つて来（く）る。<br />　代助は此嫂（あによめ）を好（す）いてゐる。此嫂（あによめ）は、天保調と明治の現代調を、容赦なく継（つ）ぎ合（あは）せた様な一種の人物である。わざ／＼仏蘭西（ふらんす）にゐる義妹（いもうと）に注文して、六づかしい名のつく、頗る高価な織物（おりもの）を取寄せて、それを四五人で裁（た）つて、帯に仕立てゝ着（き）て見たり何（なに）かする。後（あと）で、それは日本から輸出したものだと云ふ事が分つて大笑ひになつた。三越陳列所へ行つて、それを調べて来たものは代助である。夫（それ）から西洋の音楽が好（す）きで、よく代助に誘ひ出されて聞（きゝ）に行く。さうかと思ふと易断（うらなひ）に非常な興味を有（も）つてゐる。石龍子（せきりうし）と尾島某（おじまなにがし）を大いに崇拝する。代助も二三度御相伴（しようばん）に、俥（くるま）で易者（えきしや）の許（もと）迄食付（くつつ）いて行つた事がある。<br />　誠太郎と云ふ子は近頃ベースボールに熱中してゐる。代助が行つて時々（とき／″＼）球（たま）を投（な）げてやる事がある。彼は妙な希望を持つた子供である。毎年（まいとし）夏（なつ）の初めに、多くの焼芋（やきいも）屋が俄然として氷水（こほりみづ）屋に変化するとき、第一番に馳けつけて、汗も出ないのに、氷菓（アイスクリーム）を食（く）ふものは誠太郎である。氷菓（アイスクリーム）がないときには、氷水（こほりみづ）で我慢する。さうして得意になつて帰つて来（く）る。近頃では、もし相撲の常設館が出来たら、一番先（さき）へ這入つて見たいと云つてゐる。叔父（おぢ）さん誰（だれ）か相撲を知りませんかと代助に聞いた事がある。<br />　縫（ぬひ）といふ娘（むすめ）は、何か云ふと、好（よ）くつてよ、知らないわと答へる。さうして日に何遍となくリボンを掛け易へる。近頃はイオリンの稽古に行く。帰つて来（く）ると、鋸（のこぎり）の目立（めた）ての様な声を出して御浚ひをする。たゞし人が見てゐると決して遣（や）らない。室（へや）を締（し）め切（き）つて、きい／＼云はせるのだから、親（おや）は可なり上手だと思つてゐる。代助丈が時々（とき／″＼）そつと戸を明（あ）けるので、好（よ）くつてよ、知らないわと叱（しか）られる。<br />　兄（あに）は大抵不在勝（がち）である。ことに忙（いそ）がしい時になると、家（うち）で食（く）ふのは朝食（あさめし）位なもので、あとは、何（ど）うして暮（くら）してゐるのか、二人（ふたり）の子供には全く分（わか）らない。同程度に於て代助にも分らない。是は分（わか）らない方が好（この）ましいので、必要のない限（かぎ）りは、兄（あに）の日々の戸外（こぐわい）生活に就て決して研究しないのである。<br />　代助は二人（ふたり）の子供に大変人望がある。嫂（あによめ）にも可（か）なりある。兄（あに）には、あるんだか、ないんだか分（わか）らない。会（たま）に兄（あに）と弟（おとゝ）が顔を合せると、たゞ浮世（うきよ）話をする。双方とも普通の顔で、大いに平気で遣（や）つてゐる。陳腐に慣（な）れ抜（ぬ）いた様子である。

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<title>それから二の五</title>
<description> 代助は平岡（ひらをか）が語（かた）つたより外（ほか）に、まだ何（なに）かあるに違（ちがひ）ないと鑑定した。けれども彼はもう一歩進んで飽迄其真相を研究する程の権利を有（も）つてゐないことを自覚してゐる。又そんな好奇心を引き起すには、実際あまり都会化し過ぎてゐた。二十世紀の日本に生息する彼は、三十になるか、ならないのに既に nil（ニル） admirari（アドミラリ） の域に達して仕舞つた。</description>
<dc:subject>それから</dc:subject>
<dc:creator>こころ</dc:creator>
<dc:date>2006-11-22T18:44:05+09:00</dc:date>
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　代助は平岡（ひらをか）が語（かた）つたより外（ほか）に、まだ何（なに）かあるに違（ちがひ）ないと鑑定した。けれども彼はもう一歩進んで飽迄其真相を研究する程の権利を有（も）つてゐないことを自覚してゐる。又そんな好奇心を引き起すには、実際あまり都会化し過ぎてゐた。二十世紀の日本に生息する彼は、三十になるか、ならないのに既に nil（ニル） admirari（アドミラリ） の域に達して仕舞つた。<a name="more"></a>彼の思想は、人間の暗黒面に出逢つて喫驚（びつくり）する程の山出（やまだし）ではなかつた。彼（かれ）の神経は斯様に陳腐な秘密を嗅（か）いで嬉しがる様に退屈を感じてはゐなかつた。否、是より幾倍か快よい刺激でさへ、感受するを甘んぜざる位、一面から云へば、困憊してゐた。<br />　代助は平岡のそれとは殆んど縁故のない自家特有の世界の中（なか）で、もう是程に進化――進化の裏面を見ると、何時（いつ）でも退化であるのは、古今を通じて悲しむべき現象だが――してゐたのである。それを平岡は全く知らない。代助をもつて、依然として旧態を改めざる三年前の初心（うぶ）と見てゐるらしい。かう云ふ御坊つちやんに、洗（あら）ひ浚（ざら）ひ自分の弱点を打（う）ち明（あ）けては、徒（いたづ）らに馬糞（まぐそ）を投（な）げて、御嬢さまを驚ろかせると同結果に陥いり易い。余計な事をして愛想（あいそ）を尽（つ）かされるよりは黙（だま）つてゐる方が安全だ。――代助には平岡の腹が斯（か）う取（と）れた。それで平岡が自分に返事もせずに無言（むごん）で歩（ある）いて行くのが、何となく馬鹿らしく見えた。平岡が代助を小供視（こどもし）する程度に於て、あるひは其（そ）れ以上の程度に於て、代助は平岡を小供視（こどもし）し始（はじ）めたのである。けれども両人（ふたり）が十五六間過（す）ぎて、又話（はなし）を遣（や）り出した時は、どちらにも、そんな痕迹は更（さら）になかつた。最初に口（くち）を切つたのは代助であつた。<br />「それで、是（これ）から先（さき）何（ど）うする積（つもり）かね」<br />「さあ」<br />「矢っ張り今迄の経験もあるんだから、同じ職業が可（い）いかも知れないね」<br />「さあ。事情次第だが。実は緩（ゆつ）くり君に相談して見様と思つてゐたんだが。何（ど）うだらう、君（きみ）の兄（にい）さんの会社の方に口（くち）はあるまいか」<br />「うん、頼（たの）んで見様、二三日内（うち）に家（うち）へ行く用があるから。然し何（ど）うかな」<br />「もし、実業の方が駄目なら、どつか新聞へでも這入らうかと思ふ」<br />「夫（それ）も好（い）いだらう」<br />　両人（ふたり）は又電車の通る通（とほり）へ出（で）た。平岡は向ふから来（き）た電車の軒（のき）を見てゐたが、突然是に乗つて帰ると云ひ出（だ）した。代助はさうかと答へた儘、留（と）めもしない、と云つて直（すぐ）分れもしなかつた。赤い棒の立つてゐる停留所迄歩（ある）いて来（き）た。そこで、<br />「三千代（みちよ）さんは何（ど）うした」と聞（き）いた。<br />「難有う、まあ相変らずだ。君に宜（よろ）しく云つてゐた。実は今日（けふ）連（つ）れて来（き）やうと思つたんだけれども、何だか汽車に揺（ゆ）れたんで頭（あたま）が悪（わる）いといふから宿（やど）屋へ置いて来（き）た」<br />　電車が二人（ふたり）の前で留（と）まつた。平岡は二三歩早足（はやあし）に行きかけたが、代助から注意されて已めた。彼（かれ）の乗るべき車はまだ着（つ）かなかつたのである。<br />「子供は惜（お）しい事をしたね」<br />「うん。可哀想な事をした。其節は又御叮嚀に難有う。どうせ死ぬ位なら生れない方が好（よ）かつた」<br />「其後（ご）は何（ど）うだい。まだ後（あと）は出来ないか」<br />「うん、未（ま）だにも何にも、もう駄目（だめ）だらう。身体（からだ）があんまり好（よ）くないものだからね」<br />「こんなに動く時は小供のない方が却つて便利で可（い）いかも知れない」<br />「夫（それ）もさうさ。一層（いつそ）君の様に一人身（ひとりみ）なら、猶の事、気楽で可（い）いかも知れない」<br />「一人身（ひとりみ）になるさ」<br />「冗談云つてら――夫よりか、妻（さい）が頻りに、君はもう奥さんを持つたらうか、未（ま）だだらうかつて気にしてゐたぜ」<br />　所へ電車が来（き）た。

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<title>それから二の四</title>
<description> 両人（ふたり）は酔（よ）つて、戸外（おもて）へ出（で）た。酒（さけ）の勢で変な議論をしたものだから、肝心の一身上の話はまだ少しも発展せずにゐる。「少（すこ）し歩（ある）かないか」と代助が誘（さそ）つた。平岡も口（くち）程忙（いそ）がしくはないと見えて、生返事（なまへんじ）をしながら、一所に歩（ほ）を運（はこ）んで来（き）た。通（とほり）を曲（まが）つて横町へ出（で）て、成る可（べ）く、話（はなし）の為好（しい）い閑（しづか）な場所を撰んで行くうちに、何時（いつ）か緒口（いと...</description>
<dc:subject>それから</dc:subject>
<dc:creator>こころ</dc:creator>
<dc:date>2006-11-22T18:36:07+09:00</dc:date>
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　両人（ふたり）は酔（よ）つて、戸外（おもて）へ出（で）た。酒（さけ）の勢で変な議論をしたものだから、肝心の一身上の話はまだ少しも発展せずにゐる。<br />「少（すこ）し歩（ある）かないか」と代助が誘（さそ）つた。平岡も口（くち）程忙（いそ）がしくはないと見えて、生返事（なまへんじ）をしながら、一所に歩（ほ）を運（はこ）んで来（き）た。通（とほり）を曲（まが）つて横町へ出（で）て、成る可（べ）く、話（はなし）の為好（しい）い閑（しづか）な場所を撰んで行くうちに、何時（いつ）か緒口（いとくち）が付（つ）いて、思ふあたりへ談柄（だんぺい）が落ちた。<br />　平岡の云ふ所によると、赴任の当時彼は事務見習のため、地方の経済状況取調のため、大分忙がしく働らいて見た。出来得るならば、学理的に実地の応用を研究しやうと思つた位であつたが、地位が夫程高くないので、<a name="more"></a>已を得ず、自分の計画は計画として未来の試験用に頭（あたま）の中（なか）に入れて置いた。尤も始めのうちは色々支店長に建策した事もあるが、支店長は冷然として、何時（いつ）も取り合はなかつた。六（む）※［＃小書き濁点付き平仮名つ、25-10］かしい理窟抔を持ち出すと甚だ御機嫌が悪（わる）い。青二才に何が分るものかと云ふ様な風をする。其癖自分は実際何も分（わか）つて居ないらしい。平岡から見ると、其相手にしない所が、相手にするに足らないからではなくつて、寧ろ相手にするのが怖（こわ）いからの様に思はれた。其所（そこ）に平岡の癪はあつた。衝突しかけた事（こと）も一度（いちど）や二度（にど）ではない。<br />　けれども、時日（じじつ）を経過するに従つて、肝癪が何時（いつ）となく薄らいできて、次第に自分の頭（あたま）が、周囲の空気と融和する様になつた。又成るべくは、融和する様に力（つと）めた。それにつれて、支店長の自分に対する態度も段々変つて来（き）た。時々（とき／″＼）は向ふから相談をかける事さへある。すると学校を出（で）たての平岡でないから、先方（むかふ）に解（わか）らない、且つ都合のわるいことは成るべく云はない様にして置く。<br />「無暗に御世辞を使つたり、胡麻を摺（す）るのとは違ふが」と平岡はわざ／＼断つた。代助は真面目（まじめ）な顔をして、「そりや無論さうだらう」と答へた。<br />　支店長は平岡の未来（みらい）の事に就て、色々（いろ／＼）心配してくれた。近いうちに本店に帰る番に中（あた）つてゐるから、其時（そのとき）は一所に来（き）給へ抔（など）と冗談半分に約束迄した。其頃（そのころ）は事務（じむ）にも慣（な）れるし、信用も厚くなるし、交際も殖えるし、勉強をする暇（ひま）が自然となくなつて、又勉強が却つて実務の妨（さまたげ）をする様に感ぜられて来（き）た。<br />　支店長が、自分に万事を打ち明ける如く、自分は自分の部下の関（せき）といふ男を信任して、色々と相談相手にして居つた。所（ところ）が此男がある芸妓と関係（かゝりあ）つて、何時（いつ）の間（ま）にか会計に穴を明（あ）けた。それが曝露（ばくろ）したので、本人は無論解雇しなければならないが、ある事情からして、放（ほう）つて置くと、支店長に迄多少の煩（わづらひ）が及んで来（き）さうだつたから、其所（そこ）で自分が責を引いて辞職を申し出（で）た。<br />　平岡の語る所は、ざつと斯うであるが、代助には彼が支店長から因果を含められて、所決を促がされた様にも聞えた。それは平岡の話しの末に「会社員なんてものは、上（うへ）になればなる程旨（うま）い事が出来（でき）るものでね。実は関（せき）なんて、あれつ許（ばかり）の金を使ひ込んで、すぐ免職になるのは気の毒な位なものさ」といふ句があつたのから推したのである。<br />「ぢや支店長は一番旨（うま）い事をしてゐる訳だね」と代助が聞いた。<br />「或はそんなものかも知れない」と平岡は言葉を濁（にご）して仕舞つた。<br />「それで其男の使ひ込んだ金（かね）は何（ど）うした」<br />「千（せん）に足（た）らない金（かね）だつたから、僕が出して置（お）いた」<br />「よく有（あ）つたね。君も大分旨（うま）い事をしたと見える」<br />　平岡（ひらをか）は苦（にが）い顔をして、ぢろりと代助を見た。<br />「旨（うま）い事（こと）をしたと仮定しても、皆（みんな）使つて仕舞つてゐる。生活（くらし）にさへ足りない位だ。其金は借（か）りたんだよ」<br />「さうか」と代助は落ち付き払つて受けた。代助は何（ど）んな時でも平生の調子を失はない男である。さうして其調子には低（ひく）く明（あき）らかなうちに一種の丸味（まるみ）が出てゐる。<br />「支店長から借（か）りて埋（う）めて置いた」<br />「何故（なぜ）支店長がぢかに其関（せき）とか何とか云ふ男に貸して遣（や）らないのかな」<br />　平岡（ひらをか）は何とも答へなかつた。代助も押しては聞かなかつた。二人（ふたり）は無言の儘しばらくの間（あひだ）並（なら）んで歩（ある）いて行つた。

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<title>それから二の三</title>
<description> 両人（ふたり）は其所（そこ）で大分（だいぶ）飲（の）んだ。飲（の）む事（こと）と食（く）ふ事は昔（むかし）の通りだねと言（い）つたのが始（はじま）りで、硬（こわ）い舌（した）が段々（だんだん）弛（ゆる）んで来（き）た。代助は面白さうに、二三日前（まへ）自分の観（み）に行つた、ニコライの復活祭の話をした。御祭（おまつり）が夜（よ）の十二時を相図に、世の中の寐鎮（ねしづ）まる頃を見計（みはから）つて始（はじま）る。</description>
<dc:subject>それから</dc:subject>
<dc:creator>こころ</dc:creator>
<dc:date>2006-11-04T12:09:22+09:00</dc:date>
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　両人（ふたり）は其所（そこ）で大分（だいぶ）飲（の）んだ。飲（の）む事（こと）と食（く）ふ事は昔（むかし）の通りだねと言（い）つたのが始（はじま）りで、硬（こわ）い舌（した）が段々（だんだん）弛（ゆる）んで来（き）た。代助は面白さうに、二三日前（まへ）自分の観（み）に行つた、ニコライの復活祭の話をした。御祭（おまつり）が夜（よ）の十二時を相図に、世の中の寐鎮（ねしづ）まる頃を見計（みはから）つて始（はじま）る。<a name="more"></a>参詣（さんけい）人が長い廊下を廻（まは）つて本堂へ帰つて来（く）ると、何時（いつ）の間（ま）にか幾千本（いくせんぼん）の蝋燭が一度（いちど）に点（つ）いてゐる。法衣（ころも）を着（き）た坊主が行列して向ふを通るときに、黒（くろ）い影（かげ）が、無地（むぢ）の壁（かべ）へ非常に大きく映（うつ）る。――平岡は頬杖を突（つ）いて、眼鏡（めがね）の奥の二重瞼（ふたへまぶち）を赤くしながら聞いてゐた。代助はそれから夜の二時頃広（ひろ）い御成（おなり）街道を通（とほ）つて、深夜（しんや）の鉄軌（レール）が、暗（くら）い中（なか）を真直（まつすぐ）に渡（わた）つてゐる上（うへ）を、たつた一人（ひとり）上野（うへの）の森（もり）迄来（き）て、さうして電燈に照らされた花（はな）の中（なか）に這入（はい）つた。<br />「人気（ひとけ）のない夜桜（よざくら）は好（い）いもんだよ」と云つた。平岡は黙（だま）つて盃（さかづき）を干（ほ）したが、一寸（ちよつと）気の毒さうに口元（くちもと）を動（うご）かして、<br />「好（い）いだらう、僕はまだ見た事がないが。――然し、そんな真似（まね）が出来（でき）る間（あひだ）はまだ気楽なんだよ。世の中（なか）へ出（で）ると、中々（なか／＼）それ所（どころ）ぢやない」と暗に相手の無経験を上から見た様な事を云つた。代助には其調子よりも其返事の内容が不合理に感ぜられた。彼は生活上世渡りの経験よりも、復活祭当夜の経験の方が、人生に於て有意義なものと考へてゐる。其所（そこ）でこんな答をした。<br />「僕は所謂処世上の経験程愚なものはないと思つてゐる。苦痛がある丈ぢやないか」<br />　平岡は酔つた眼（め）を心持大きくした。<br />「大分（だいぶ）考へが違（ちが）つて来（き）た様だね。――けれども其苦痛が後（あと）から薬（くすり）になるんだつて、もとは君の持説ぢやなかつたか」<br />「そりや不見識な青年が、流俗の諺（ことわざ）に降参して、好加減な事を云つてゐた時分の持説だ。もう、とつくに撤回しちまつた」<br />「だつて、君だつて、もう大抵世の中（なか）へ出（で）なくつちやなるまい。其時それぢや困るよ」<br />「世の中（なか）へは昔（むかし）から出（で）てゐるさ。ことに君と分（わか）れてから、大変世の中が広（ひろ）くなつた様な気がする。たゞ君の出（で）てゐる世（よ）の中（なか）とは種類が違（ちが）ふ丈だ」<br />「そんな事を云つて威張つたつて、今に降参する丈だよ」<br />「無論食ふに困る様になれば、何時（いつ）でも降参するさ。然し今日に不自由のないものが、何を苦しんで劣等な経験を嘗（な）めるものか。印度人が外套を着て、冬の来た時の用心をすると同じ事だもの」<br />　平岡の眉の間（あひだ）に、一寸（ちよつと）不快の色が閃（ひら）めいた。赤い眼（め）を据ゑてぷか／＼烟草（たばこ）を吹かしてゐる。代助は、ちと云ひ過ぎたと思つて、少（すこ）し調子を穏（おだ）やかにした。――<br />「僕の知つたものに、丸で音楽の解（わか）らないものがある。学校の教師をして、一軒ぢや飯（めし）が食（く）へないもんだから、三軒も四軒も懸け持をやつてゐるが、そりや気の毒なもんで、下読（したよみ）をするのと、教場へ出（で）て器械的に口（くち）を動（うご）かしてゐるより外に全く暇（ひま）がない。たまの日曜抔は骨休めとか号して一日ぐう／＼寐てゐる。だから何所（どこ）に音楽会があらうと、どんな名人が外国から来（き）やうと聞（きゝ）に行く機会がない。つまり楽（がく）といふ一種の美くしい世界には丸で足を踏み込まないで死んで仕舞はなくつちやならない。僕から云はせると、是程憐れな無経験はないと思ふ。麺麭（ぱん）に関係した経験は、切実かも知れないが、要するに劣等だよ。麺麭（ぱん）を離れ水を離れた贅沢な経験をしなくつちや人間の甲斐はない。君は僕をまだ坊っちやんだと考へてるらしいが、僕の住んでゐる贅沢な世界では、君よりずつと年長者の積りだ」<br />　平岡は巻莨（まきたばこ）の灰を、皿（さら）の上（うへ）にはたきながら、沈（しづ）んだ暗（くら）い調子で、<br />「うん、何時（いつ）迄もさう云ふ世界に住んでゐられゝば結構さ」と云つた。其重（おも）い言葉の足（あし）が、富（とみ）に対する一種の呪咀を引（ひ）き摺（ず）つてゐる様に聴（きこ）えた。

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<title>それから 二の二</title>
<description> 代助と平岡とは中学時代からの知り合で、殊に学校を卒業して後（のち）、一年間といふものは、殆んど兄弟の様に親しく往来した。其時分は互に凡てを打ち明けて、互に力（ちから）に為（な）り合（あ）ふ様なことを云ふのが、互に娯楽の尤もなるものであつた。この娯楽が変じて実行となつた事も少なくないので、彼等は双互の為めに口（くち）にした凡ての言葉には、娯楽どころか、常に一種の犠牲を含んでゐると確信してゐた。さうして其犠牲を即座に払へば、</description>
<dc:subject>それから</dc:subject>
<dc:creator>こころ</dc:creator>
<dc:date>2006-08-23T02:35:45+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
　代助と平岡とは中学時代からの知り合で、殊に学校を卒業して後（のち）、一年間といふものは、殆んど兄弟の様に親しく往来した。其時分は互に凡てを打ち明けて、互に力（ちから）に為（な）り合（あ）ふ様なことを云ふのが、互に娯楽の尤もなるものであつた。この娯楽が変じて実行となつた事も少なくないので、彼等は双互の為めに口（くち）にした凡ての言葉には、娯楽どころか、常に一種の犠牲を含んでゐると確信してゐた。さうして其犠牲を即座に払へば、<a name="more"></a>娯楽の性質が、忽然苦痛に変ずるものであると云ふ陳腐な事実にさへ気が付かずにゐた。一年の後平岡は結婚した。同時に、自分の勤（つと）めてゐる銀行の、京坂地方のある支店詰になつた。代助は、出立（しつたつ）の当時、新夫婦を新橋の停車場に送つて、愉快さうに、直（ぢき）帰つて来給（きたま）へと平岡の手を握つた。平岡は、仕方がない、当分辛抱するさと打遣る様に云つたが、其眼鏡（めがね）の裏には得意の色が羨ましい位動いた。それを見た時、代助は急に此友達を憎らしく思つた。家（うち）へ帰つて、一日（いちにち）部屋に這入つたなり考へ込んでゐた。嫂（あによめ）を連れて音楽会へ行く筈（はづ）の所を断わつて、大いに嫂（あによめ）に気を揉ました位である。<br />　平岡からは断えず音信（たより）があつた。安着の端書（はがき）、向ふで世帯を持つた報知、それが済むと、支店勤務の模様、自己将来の希望、色々あつた。手紙の来（く）るたびに、代助は何時（いつ）も丁寧な返事を出した。不思議な事に、代助が返事を書（か）くときは、何時（いつ）でも一種の不安に襲はれる。たまには我慢するのが厭（いや）になつて、途中で返事を已めて仕舞ふ事がある。たゞ平岡の方から、自分の過去の行為に対して、幾分か感謝の意を表して来（く）る場合に限つて、安々（やす／＼）と筆が動いて、比較的なだらかな返事が書けた。<br />　そのうち段々手紙の遣（や）り取りが疎遠になつて、月に二遍が、一遍になり、一遍が又二（ふた）月、三（み）月に跨がる様に間（あひだ）を置（お）いて来（く）ると、今度は手紙を書（か）かない方が、却つて不安になつて、何の意味もないのに、只この感じを駆逐する為（ため）に封筒の糊（のり）を湿（しめ）す事があつた。それが半年ばかり続くうちに、代助の頭（あたま）も胸（むね）も段々組織が変つて来（く）る様に感ぜられて来（き）た。此変化に伴（ともな）つて、平岡へは手紙を書（か）いても書（か）かなくつても、丸で苦痛を覚えない様になつて仕舞つた。現（げん）に代助が一戸を構へて以来、約一年余と云ふものは、此春（このはる）年賀状の交換のとき、序を以て、今の住所を知らした丈である。<br />　それでも、ある事情があつて、平岡の事は丸で忘れる訳には行かなかつた。時々（とき／″＼）思ひ出（だ）す。さうして今頃は何（ど）うして暮（くら）してゐるだらうと、色々に想像して見る事がある。然したゞ思ひ出す丈で、別段問ひ合せたり聞き合せたりする程に、気を揉む勇気も必要もなく、今日迄過（すご）して来（き）た所へ、二週間前に突然平岡からの書信が届いたのである。其手紙には近々当地を引き上（あ）げて、御地へまかり越す積りである。但し本店からの命令で、栄転の意味を含んだ他動的の進退と思つてくれては困る。少し考があつて、急に職業替をする気になつたから、着京の上は何分（なにぶん）宜しく頼（たの）むとあつた。此何分宜しく頼（たの）むの頼（たの）むは本当の意味の頼（たの）むか、又は単に辞令上の頼（たの）むか不明だけれども、平岡の一身上に急劇な変化のあつたのは争ふべからざる事実である。代助は其時はつと思つた。<br />　それで、逢（あ）ふや否や此変動の一部始終を聞かうと待設けて居たのだが、不幸にして話が外（そ）れて容易に其所（そこ）へ戻（もど）つて来（こ）ない。折を見て此方（こつち）から持ち掛けると、まあ緩（ゆ）つくり話すとか何とか云つて、中々（なか／＼）埒（らち）を開（あ）けない。代助は仕方（しかた）なしに、仕舞に、<br />「久（ひさ）し振（ぶ）りだから、其所（そこ）いらで飯（めし）でも食はう」と云ひ出した。平岡は、それでも、まだ、何（いづ）れ緩（ゆつ）くりを繰返したがるのを、無理に引張つて、近所の西洋料理へ上（あが）つた。

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<title>三四郎 １３</title>
<description> 原口さんの絵はでき上がった。丹青会はこれを一室の正面にかけた。そうしてその前に長い腰掛けを置いた。休むためでもある。絵を見るためでもある。休みかつ味わうためでもある。丹青会はこうして、この大作に徊（ていかい）する多くの観覧者に便利を与えた。特別の待遇である。絵が特別のできだからという。あるいは人の目をひく題だからともいう。少数のものは、あの女を描いたからだといった。会員の一、二はまったく大きいからだと弁解した。大きいには違いない。幅五寸に余る金の縁をつけて見ると、見違えるよ...</description>
<dc:subject>三四郎</dc:subject>
<dc:creator>こころ</dc:creator>
<dc:date>2006-08-23T02:16:27+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
　原口さんの絵はでき上がった。丹青会はこれを一室の正面にかけた。そうしてその前に長い腰掛けを置いた。休むためでもある。絵を見るためでもある。休みかつ味わうためでもある。丹青会はこうして、この大作に徊（ていかい）する多くの観覧者に便利を与えた。特別の待遇である。絵が特別のできだからという。あるいは人の目をひく題だからともいう。少数のものは、あの女を描いたからだといった。会員の一、二はまったく大きいからだと弁解した。大きいには違いない。幅五寸に余る金の縁をつけて見ると、見違えるように大きくなった。<br />　原口さんは開会の前日検分のためちょっと来た。腰掛けに腰をおろして、久しいあいだパイプをくわえてながめていた。やがて、<a name="more"></a>ぬっと立って、場内を一巡丁寧に回った。それからまたもとの腰掛けへ帰って、第二のパイプをゆっくり吹かした。<br />「森の女」の前には開会の当日から人がいっぱいたかった。せっかくの腰掛けは無用の長物となった。ただ疲れた者が、絵を見ないために休んでいた。それでも休みながら「森の女」の評をしていた者がある。<br />　美禰子は夫に連られて二日目に来た。原口さんが案内をした。「森の女」の前へ出た時、原口さんは「どうです」と二人（ふたり）を見た。夫は「結構です」と言って、眼鏡（めがね）の奥からじっと眸（ひとみ）を凝らした。<br />「この団扇（うちわ）をかざして立った姿勢がいい。さすが専門家は違いますね。よくここに気がついたものだ。光線が顔へあたるぐあいがうまい。陰と日向（ひなた）の段落がかっきりして――顔だけでも非常におもしろい変化がある」<br />「いや皆御当人のお好みだから。ぼくの手柄（てがら）じゃない」<br />「おかげさまで」と美禰子が礼を述べた。<br />「私も、おかげさまで」と今度は原口さんが礼を述べた。<br />　夫は細君の手柄だと聞いてさもうれしそうである。三人のうちでいちばん鄭重（ていちょう）な礼を述べたのは夫である。<br />　開会後第一の土曜の昼過ぎにはおおぜいいっしょに来た。――広田先生と野々宮さんと与次郎と三四郎と。四人（よったり）はよそをあと回しにして、第一に「森の女」の部屋（へや）にはいった。与次郎が「あれだ、あれだ」と言う。人がたくさんたかっている。三四郎は入口でちょっと躊躇（ちゅうちょ）した。野々宮さんは超然としてはいった。<br />　おおぜいのうしろから、のぞきこんだだけで、三四郎は退いた。腰掛けによってみんなを待ち合わしていた。<br />「すてきに大きなもの描いたな」と与次郎が言った。<br />「佐々木に買ってもらうつもりだそうだ」と広田先生が言った。<br />「ぼくより」と言いかけて、見ると、三四郎はむずかしい顔をして腰掛けにもたれている。与次郎は黙ってしまった。<br />「色の出し方がなかなか洒落（しゃれ）ていますね。むしろ意気な絵だ」と野々宮さんが評した。<br />「少し気がききすぎているくらいだ。これじゃ鼓（つづみ）の音（ね）のようにぽんぽんする絵はかけないと自白するはずだ」と広田先生が評した。<br />「なんですぽんぽんする絵というのは」<br />「鼓の音のように間が抜けていて、おもしろい絵の事さ」<br />　二人は笑った。二人は技巧の評ばかりする。与次郎が異を立てた。<br />「里見さんを描いちゃ、だれが描いたって、間が抜けてるようには描けませんよ」<br />　野々宮さんは目録へ記号（しるし）をつけるために、隠袋（かくし）へ手を入れて鉛筆を捜した。鉛筆がなくって、一枚の活版刷りのはがきが出てきた。見ると、美禰子の結婚披露（ひろう）の招待状であった。披露はとうに済んだ。野々宮さんは広田先生といっしょにフロックコートで出席した。三四郎は帰京の当日この招待状を下宿の机の上に見た。時期はすでに過ぎていた。<br />　野々宮さんは、招待状を引き千切って床の上に捨てた。やがて先生とともにほかの絵の評に取りかかる。与次郎だけが三四郎のそばへ来た。<br />「どうだ森の女は」<br />「森の女という題が悪い」<br />「じゃ、なんとすればよいんだ」<br />　三四郎はなんとも答えなかった。ただ口の中で迷羊（ストレイ・シープ）、迷羊（ストレイ・シープ）と繰り返した。<br /><br /><br /><br />-----------------------------------------------------------<br /><br />底本：「三四郎」角川文庫クラシックス、角川書店 <br />　　　1951（昭和26）年10月20日初版発行<br />　　　1997（平成9）年6月10日127刷<br />

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<title>三四郎 １２</title>
<description> 演芸会は比較的寒い時に開かれた。年はようやく押し詰まってくる。人は二十日（はつか）足らずの目のさきに春を控えた。市（いち）に生きるものは、忙しからんとしている。越年（おつねん）の計（はかりごと）は貧者の頭（こうべ）に落ちた。演芸会はこのあいだにあって、すべてののどかなるものと、余裕あるものと、春と暮の差別を知らぬものとを迎えた。 それが、いくらでもいる。たいていは若い男女（なんにょ）である。一日目（いちじつめ）に与次郎が、三四郎に向かって大成功と叫んだ。三四郎は二日目（ふつ...</description>
<dc:subject>三四郎</dc:subject>
<dc:creator>こころ</dc:creator>
<dc:date>2006-08-23T02:05:15+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
　演芸会は比較的寒い時に開かれた。年はようやく押し詰まってくる。人は二十日（はつか）足らずの目のさきに春を控えた。市（いち）に生きるものは、忙しからんとしている。越年（おつねん）の計（はかりごと）は貧者の頭（こうべ）に落ちた。演芸会はこのあいだにあって、すべてののどかなるものと、余裕あるものと、春と暮の差別を知らぬものとを迎えた。<br />　それが、いくらでもいる。たいていは若い男女（なんにょ）である。一日目（いちじつめ）に与次郎が、三四郎に向かって大成功と叫んだ。三四郎は二日目（ふつかめ）の切符を持っていた。与次郎が広田先生を誘って行けと言う。切符が違うだろうと聞けば、むろん違うと言う。しかし一人でほうっておくと、<a name="more"></a>けっして行く気づかいがないから、君が寄って引っ張り出すのだと理由（わけ）を説明して聞かせた。三四郎は承知した。<br />　夕刻に行ってみると、先生は明るいランプの下に大きな本を広げていた。<br />「おいでになりませんか」と聞くと、先生は少し笑いながら、無言のまま首を横に振った。子供のような所作をする。しかし三四郎には、それが学者らしく思われた。口をきかないところがゆかしく思われたのだろう。三四郎は中腰になって、ぼんやりしていた。先生は断わったのが気の毒になった。<br />「君行くなら、いっしょに出よう。ぼくも散歩ながら、そこまで行くから」<br />　先生は黒い回套（まわし）を着て出た。懐手（ふところで）らしいがわからない。空が低くたれている。星の見えない寒さである。<br />「雨になるかもしれない」<br />「降ると困るでしょう」<br />「出入（ではい）りにね。日本の芝居小屋（しばいごや）は下足（げそく）があるから、天気のいい時ですらたいへんな不便だ。それで小屋の中は、空気が通わなくって、煙草が煙って、頭痛がして、――よく、みんな、あれで我慢ができるものだ」<br />「ですけれども、まさか戸外（こがい）でやるわけにもいかないからでしょう」<br />「お神楽（かぐら）はいつでも外でやっている。寒い時でも外でやる」<br />　三四郎は、こりゃ議論にならないと思って、答を見合わせてしまった。<br />「ぼくは戸外がいい。暑くも寒くもない、きれいな空の下で、美しい空気を呼吸して、美しい芝居が見たい。透明な空気のような、純粋で簡単な芝居ができそうなものだ」<br />「先生の御覧になった夢でも、芝居にしたらそんなものができるでしょう」<br />「君ギリシアの芝居を知っているか」<br />「よく知りません。たしか戸外でやったんですね」<br />「戸外。まっ昼間。さぞいい心持ちだったろうと思う。席は天然の石だ。堂々としている。与次郎のようなものは、そういう所へ連れて行って、少し見せてやるといい」<br />　また与次郎の悪口（わるくち）が出た。その与次郎は今ごろ窮屈な会場のなかで、一生懸命に、奔走しかつ斡旋（あっせん）して大得意なのだからおもしろい。もし先生を連れて行かなかろうものなら、先生はたして来ない。たまにはこういう所へ来て見るのが、先生のためにはどのくらいいいかわからないのだのに、いくらぼくが言っても聞かない。困ったものだなあ。と嘆息するにきまっているからなおおもしろい。<br />　先生はそれからギリシアの劇場の構造を詳しく話してくれた。三四郎はこの時先生から、Theatron（テアトロン）, Orchstra（オルケストラ）, Skn（スケーネ）, Prosknion（プロスケニオン） などという字の講釈を聞いた。なんとかいうドイツ人の説によるとアテンの劇場は一万七千人をいれる席があったということも聞いた。それは小さいほうである。もっとも大きいのは、五万人をいれたということも聞いた。入場券は象牙（ぞうげ）と鉛と二通りあって、いずれも賞牌（メダル）みたような恰好（かっこう）で、表に模様が打ち出してあったり、彫刻が施してあるということも聞いた。先生はその入場券の価まで知っていた。一日だけの小芝居は十二銭で、三日続きの大芝居は三十五銭だと言った。三四郎がへえ、へえと感心しているうちに、演芸会場の前へ出た。<br />　さかんに電燈がついている。入場者は続々寄って来る。与次郎の言ったよりも以上の景気である。<br />「どうです、せっかくだからおはいりになりませんか」<br />「いやはいらない」<br />　先生はまた暗い方へ向いて行った。<br />　三四郎は、しばらく先生の後影を見送っていたが、あとから、車で乗りつける人が、下足札を受け取る手間も惜しそうに、急いではいって行くのを見て、自分も足早に入場した。前へ押されたと同じことである。<br />　入口に四、五人用のない人が立っている。そのうちの袴（はかま）を着けた男が入場券を受け取った。その男の肩の上から場内をのぞいて見ると、中は急に広くなっている。かつはなはだ明るい。三四郎は眉（まゆ）に手を加えないばかりにして、導かれた席に着いた。狭い所に割り込みながら、四方を見回すと、人間の持って来た色で目がちらちらする。自分の目を動かすからばかりではない。無数の人間に付着した色が、広い空間で、たえずめいめいに、かつかってに、動くからである。<br />　舞台ではもう始まっている。出てくる人物が、みんな冠（かんむり）をかむって、沓（くつ）をはいていた。そこへ長い輿（こし）をかついで来た。それを舞台のまん中でとめた者がある。輿をおろすと、中からまた一人あらわれた。その男が刀を抜いて、輿を突き返したのと斬り合いを始めた。――三四郎にはなんのことかまるでわからない。もっとも与次郎から梗概（こうがい）を聞いたことはある。けれどもいいかげんに聞いていた。見ればわかるだろうと考えて、うんなるほどと言っていた。ところが見れば毫（ごう）もその意を得ない。三四郎の記憶にはただ入鹿（いるか）の大臣（おとど）という名前が残っている。三四郎はどれが入鹿だろうかと考えた。それはとうてい見込みがつかない。そこで舞台全体を入鹿のつもりでながめていた。すると冠でも、沓でも、筒袖（つつそで）の衣服（きもの）でも、使う言葉でも、なんとなく入鹿臭くなってきた。実をいうと三四郎には確然たる入鹿の観念がない。日本歴史を習ったのが、あまりに遠い過去であるから、古い入鹿の事もつい忘れてしまった。推古天皇（すいこてんのう）の時のようでもある。欽明天皇（きんめいてんのう）の御代（みよ）でもさしつかえない気がする。応神天皇（おうじんてんのう）や聖武天皇（しょうむてんのう）ではけっしてないと思う。三四郎はただ入鹿じみた心持ちを持っているだけである。芝居を見るにはそれでたくさんだと考えて、唐（から）めいた装束（しょうぞく）や背景をながめていた。しかし筋はちっともわからなかった。そのうち幕になった。<br />　幕になる少しまえに、隣の男が、そのまた隣の男に、登場人物の声が、六畳敷で、親子差向かいの談話のようだ。まるで訓練がないと非難していた。そっち隣の男は登場人物の腰が据わらない。ことごとくひょろひょろしていると訴えていた。二人は登場人物の本名（ほんみょう）をみんな暗（そら）んじている。三四郎は耳を傾けて二人の談話を聞いていた。二人ともりっぱな服装（なり）をしている。おおかた有名な人だろうと思った。けれどももし与次郎にこの談話を聞かせたらさだめし反対するだろうと思った。その時うしろの方でうまいうまいなかなかうまいと大きな声を出した者がある。隣の男は二人ともうしろを振り返った。それぎり話をやめてしまった。そこで幕がおりた。<br />　あすこ、ここに席を立つ者がある。花道（はなみち）から出口へかけて、人の影がすこぶる忙しい。三四郎は中腰になって、四方をぐるりと見回した。来ているはずの人はどこにも見えない。本当をいうと演芸中にもできるだけは気をつけていた。それで知れないから、幕になったらばと内々心あてにしていたのである。三四郎は少し失望した。やむをえず目を正面に帰した。<br />　隣の連中（れんじゅう）はよほど世間が広い男たちとみえて、左右を顧みて、あすこにはだれがいる。ここにはだれがいるとしきりに知名の人の名を口にする。なかには離れながら、互いに挨拶（あいさつ）をしたのも、一、二人ある。三四郎はおかげでこれら知名な人の細君を少し覚えた。そのなかには新婚したばかりの者もあった。これは隣の一人にも珍しかったとみえて、その男はわざわざ眼鏡（めがね）をふき直して、なるほどなるほどと言って見ていた。<br />　すると、幕のおりた舞台の前を、向こうの端（はじ）からこっちへ向けて、小走りに与次郎がかけて来た。三分の二ほどの所で留まった。少し及び腰になって、土間の中をのぞき込みながら、何か話している。三四郎はそれを見当にねらいをつけた。――舞台の端に立った与次郎から一直線に、二、三間隔てて美禰子の横顔が見えた。<br />　そのそばにいる男は背中を三四郎に向けている。三四郎は心のうちに、この男が何かの拍子に、どうかしてこっちを向いてくれればいいと念じていた。うまいぐあいにその男は立った。すわりくたびれたとみえて、枡（ます）の仕切りに腰をかけて、場内を見回しはじめた。その時三四郎は明らかに野々宮さんの広い額と大きな目を認めることができた。野々宮さんが立つとともに、美禰子のうしろにいたよし子の姿も見えた。三四郎はこの三人のほかに、まだ連（つれ）がいるかいないかを確かめようとした。けれども遠くから見ると、ただ人がぎっしり詰まっているだけで、連といえば土間全体が連とみえるまでだからしかたがない。美禰子と与次郎のあいだには、時々談話が交換されつつあるらしい。野々宮さんもおりおり口を出すと思われる。<br />　すると突然原口さんが幕の間から出て来た。与次郎と並んでしきりに土間の中をのぞきこむ。口はむろん動かしているのだろう。野々宮さんは合い図のような首を縦に振った。その時原口さんはうしろから、平手（ひらて）で、与次郎の背中をたたいた。与次郎はくるりと引っ繰り返って、幕の裾（すそ）をもぐってどこかへ消えうせた。原口さんは、舞台を降りて、人と人との間を伝わって、野々宮さんのそばまで来た。野々宮さんは、腰を立てて原口さんを通した。原口さんはぽかりと人の中へ飛び込んだ。美禰子とよし子のいるあたりで見えなくなった。<br />　この連中の一挙一動を演芸以上の興味をもって注意していた三四郎は、この時急に原口流の所作がうらやましくなった。ああいう便利な方法で人のそばへ寄ることができようとは毫も思いつかなかった。自分もひとつまねてみようかしらと思った。しかしまねるという自覚が、すでに実行の勇気をくじいたうえに、もうはいる席は、いくら詰めても、むずかしかろうという遠慮が手伝って、三四郎の尻（しり）は依然として、もとの席を去りえなかった。<br />　そのうち幕があいて、ハムレットが始まった。三四郎は広田先生のうちで西洋のなんとかいう名優のふんしたハムレットの写真を見たことがある。今三四郎の目の前にあらわれたハムレットは、これとほぼ同様の服装をしている。服装ばかりではない。顔まで似ている。両方とも八の字を寄せている。<br />　このハムレットは動作がまったく軽快で、心持ちがいい。舞台の上を大いに動いて、また大いに動かせる。能掛（のうがか）りの入鹿とはたいへん趣を異にしている。ことに、ある時、ある場合に、舞台のまん中に立って、手を広げてみたり、空をにらんでみたりするときは、観客の眼中にほかのものはいっさい入り込む余地のないくらい強烈な刺激を与える。<br />　その代り台詞（せりふ）は日本語である。西洋語を日本語に訳した日本語である。口調には抑揚がある。節奏もある。あるところは能弁すぎると思われるくらい流暢（りゅうちょう）に出る。文章もりっぱである。それでいて、気が乗らない。三四郎はハムレットがもう少し日本人じみたことを言ってくれればいいと思った。おっかさん、それじゃおとっさんにすまないじゃありませんかと言いそうなところで、急にアポロなどを引合いに出して、のん気にやってしまう。それでいて顔つきは親子とも泣きだしそうである。しかし三四郎はこの矛盾をただ朧気（おぼろげ）に感じたのみである。けっしてつまらないと思いきるほどの勇気は出なかった。<br />　したがって、ハムレットに飽きた時は、美禰子の方を見ていた。美禰子が人の影に隠れて見えなくなる時は、ハムレットを見ていた。<br />　ハムレットがオフェリヤに向かって、尼寺へ行け尼寺へ行けと言うところへきた時、三四郎はふと広田先生のことを考え出した。広田先生は言った。――ハムレットのようなものに結婚ができるか。――なるほど本で読むとそうらしい。けれども、芝居では結婚してもよさそうである。よく思案してみると、尼寺へ行けとの言い方が悪いのだろう。その証拠には尼寺へ行けと言われたオフェリヤがちっとも気の毒にならない。<br />　幕がまたおりた。美禰子とよし子が席を立った。三四郎もつづいて立った。廊下まで来てみると、二人は廊下の中ほどで、男と話をしている。男は廊下から出（で）はいりのできる左側の席の戸口に半分からだを出した。男の横顔を見た時、三四郎はあとへ引き返した。席へ返らずに下足を取って表へ出た。<br />　本来は暗い夜（よ）である。人の力で明るくした所を通り越すと、雨が落ちているように思う。風が枝を鳴らす。三四郎は急いで下宿に帰った。<br />　夜半（よなか）から降りだした。三四郎は床（とこ）の中で、雨の音を聞きながら、尼寺へ行けという一句を柱にして、その周囲（まわり）にぐるぐる徊（ていかい）した。広田先生も起きているかもしれない。先生はどんな柱を抱いているだろう。与次郎は偉大なる暗闇の中に正体なく埋まっているに違いない。……<br />　あくる日は少し熱がする。頭が重いから寝ていた。昼飯は床の上に起き直って食った。また一寝入りすると今度は汗が出た。気がうとくなる。そこへ威勢よく与次郎がはいって来た。ゆうべも見えず、けさも講義に出ないようだからどうしたかと思って尋ねたと言う。三四郎は礼を述べた。<br />「なに、ゆうべは行ったんだ。行ったんだ。君が舞台の上に出てきて、美禰子さんと、遠くで話をしていたのも、ちゃんと知っている」<br />　三四郎は少し酔ったような心持ちである。口をききだすと、つるつると出る。与次郎は手を出して、三四郎の額をおさえた。<br />「だいぶ熱がある。薬を飲まなくっちゃいけない。風邪（かぜ）を引いたんだ」<br />「演芸場があまり暑すぎて、明るすぎて、そうして外へ出ると、急に寒すぎて、暗すぎるからだ。あれはよくない」<br />「いけないたって、しかたがないじゃないか」<br />「しかたがないったって、いけない」<br />　三四郎の言葉はだんだん短くなる、与次郎がいいかげんにあしらっているうちに、すうすう寝てしまった。一時間ほどしてまた目をあけた。与次郎を見て、<br />「君、そこにいるのか」と言う。今度は平生の三四郎のようである。気分はどうかと聞くと、頭が重いと答えただけである。<br />「風邪だろう」<br />「風邪だろう」<br />　両方で同じ事を言った。しばらくしてから、三四郎が与次郎に聞いた。<br />「君、このあいだ美禰子さんの事を知ってるかとぼくに尋ねたね」<br />「美禰子さんの事を？　どこで？」<br />「学校で」<br />「学校で？　いつ」<br />　与次郎はまだ思い出せない様子である。三四郎はやむをえずその前後の当時を詳しく説明した。与次郎は、<br />「なるほどそんな事があったかもしれない」と言っている。三四郎はずいぶん無責任だと思った。与次郎も少し気の毒になって、考え出そうとした。やがてこう言った。<br />「じゃ、なんじゃないか。美禰子さんが嫁に行くという話じゃないか」<br />「きまったのか」<br />「きまったように聞いたが、よくわからない」<br />「野々宮さんの所か」<br />「いや、野々宮さんじゃない」<br />「じゃ……」と言いかけてやめた。<br />「君、知ってるのか」<br />「知らない」と言い切った。すると与次郎が少し前へ乗り出してきた。<br />「どうもよくわからない。不思議な事があるんだが。もう少したたないと、どうなるんだか見当がつかない」<br />　三四郎は、その不思議な事を、すぐ話せばいいと思うのに、与次郎は平気なもので、一人でのみこんで、一人で不思議がっている。三四郎はしばらく我慢していたが、とうとう焦（じ）れったくなって、与次郎に、美禰子に関するすべての事実を隠さずに話してくれと請求した。与次郎は笑いだした。そうして慰謝のためかなんだか、とんだところへ話頭を持っていってしまった。<br />「ばかだなあ、あんな女を思って。思ったってしかたがないよ。第一、君と同年（おないどし）ぐらいじゃないか。同年ぐらいの男にほれるのは昔の事だ。八百屋（やおや）お七（しち）時代の恋だ」<br />　三四郎は黙っていた。けれども与次郎の意味はよくわからなかった。<br />「なぜというに。二十（はたち）前後の同じ年の男女（なんにょ）を二人並べてみろ。女のほうが万事上手（うわて）だあね。男は馬鹿にされるばかりだ。女だって、自分の軽蔑（けいべつ）する男の所へ嫁へ行く気は出ないやね。もっとも自分が世界でいちばん偉いと思ってる女は例外だ。軽蔑する所へ行かなければ独身で暮らすよりほかに方法はないんだから。よく金持ちの娘や何かにそんなのがあるじゃないか、望んで嫁に来ておきながら、亭主を軽蔑しているのが。美禰子さんはそれよりずっと偉い。その代り、夫として尊敬のできない人の所へははじめから行く気はないんだから、相手になるものはその気でいなくっちゃいけない。そういう点で君だのぼくだのは、あの女の夫になる資格はないんだよ」<br />　三四郎はとうとう与次郎といっしょにされてしまった。しかし依然として黙っていた。<br />「そりゃ君だって、ぼくだって、あの女よりはるかに偉いさ。お互いにこれでも、なあ。けれども、もう五、六年たたなくっちゃ、その偉さ加減がかの女の目に映ってこない。しかして、かの女は五、六年じっとしている気づかいはない。したがって、君があの女と結婚する事は風馬牛（ふうばぎゅう）だ」<br />　与次郎は風馬牛という熟字を妙なところへ使った。そうして一人で笑っている。<br />「なに、もう五、六年もすると、あれより、ずっと上等なのが、あらわれて来るよ。日本（にほん）じゃ今女のほうが余っているんだから。風邪なんか引いて熱を出したってはじまらない。――なに世の中は広いから、心配するがものはない。じつはぼくにもいろいろあるんだが、ぼくのほうであんまりうるさいから、御用で長崎へ出張すると言ってね」<br />「なんだ、それは」<br />「なんだって、ぼくの関係した女さ」<br />　三四郎は驚いた。<br />「なに、女だって、君なんぞのかつて近寄ったことのない種類の女だよ。それをね、長崎へ黴菌（ばいきん）の試験に出張するから当分だめだって断わっちまった。ところがその女が林檎（りんご）を持って停車場（ステーション）まで送りに行くと言いだしたんで、ぼくは弱ったね」<br />　三四郎はますます驚いた。驚きながら聞いた。<br />「それで、どうした」<br />「どうしたか知らない。林檎を持って、停車場に待っていたんだろう」<br />「ひどい男だ。よく、そんな悪い事ができるね」<br />「悪い事で、かあいそうな事だとは知ってるけれども、しかたがない。はじめから次第次第に、そこまで運命に持っていかれるんだから。じつはとうのさきからぼくが医科の学生になっていたんだからなあ」<br />「なんで、そんなよけいな嘘（うそ）をつくんだ」<br />「そりゃ、またそれぞれの事情のあることなのさ。それで、女が病気の時に、診断を頼まれて困ったこともある」<br />　三四郎はおかしくなった。<br />「その時は舌を見て、胸をたたいて、いいかげんにごまかしたが、その次に病院へ行って、見てもらいたいがいいかと聞かれたには閉口した」<br />　三四郎はとうとう笑いだした。与次郎は、<br />「そういうこともたくさんあるから、まあ安心するがよかろう」と言った。なんの事だかわからない。しかし愉快になった。<br />　与次郎はその時はじめて、美禰子に関する不思議を説明した。与次郎の言うところによると、よし子にも結婚の話がある。それから美禰子にもある。それだけならばいいが、よし子の行く所と、美禰子の行く所が、同じ人らしい。だから不思議なのだそうだ。<br />　三四郎も少しばかにされたような気がした。しかしよし子の結婚だけはたしかである。現に自分がその話をそばで聞いていた。ことによるとその話を美禰子のと取り違えたのかもしれない。けれども美禰子の結婚も、まったく嘘ではないらしい。三四郎ははっきりしたところが知りたくなった。ついでだから、与次郎に教えてくれと頼んだ。与次郎はわけなく承知した。よし子を見舞いに来るようにしてやるから、じかに聞いてみろという。うまい事を考えた。<br />「だから、薬を飲んで、待っていなくってはいけない」<br />「病気が直っても、寝て待っている」<br />　二人は笑って別れた。帰りがけに与次郎が、近所の医者に来てもらう手続きをした。<br />　晩になって、医者が来た。三四郎は自分で医者を迎えた覚えがないんだから、はじめは少し狼狽（ろうばい）した。そのうち脈を取られたのでようやく気がついた。年の若い丁寧な男である。三四郎は代診と鑑定した。五分ののち病症はインフルエンザときまった。今夜頓服（とんぷく）を飲んで、なるべく風にあたらないようにしろという注意である。<br />　翌日目がさめると、頭がだいぶ軽くなっている。寝ていれば、ほとんど常体に近い。ただ枕を離れると、ふらふらする。下女が来て、だいぶ部屋の中が熱臭いと言った。三四郎は飯も食わずに、仰向けに天井をながめていた。時々うとうと眠くなる。明らかに熱と疲れとにとらわれたありさまである。三四郎は、とらわれたまま、逆らわずに、寝たりさめたりするあいだに、自然に従う一種の快感を得た。病症が軽いからだと思った。<br />　四時間、五時間とたつうちに、そろそろ退屈を感じだした。しきりに寝返りを打つ。外はいい天気である。障子にあたる日が、次第に影を移してゆく。雀（すずめ）が鳴く。三四郎はきょうも与次郎が遊びに来てくれればいいと思った。<br />　ところへ下女が障子をあけて、女のお客様だと言う。よし子が、そう早く来ようとは待ち設けなかった。与次郎だけに敏捷（びんしょう）な働きをした。寝たまま、あけ放しの入口に目をつけていると、やがて高い姿が敷居の上へ現われた。きょうは紫の袴（はかま）をはいている。足は両方とも廊下にある。ちょっとはいるのを躊躇（ちゅうちょ）した様子が見える。三四郎は肩を床から上げて、「いらっしゃい」と言った。<br />　よし子は障子をたてて、枕元（まくらもと）へすわった。六畳の座敷が、取り乱してあるうえに、けさは掃除（そうじ）をしないから、なお狭苦しい。女は、三四郎に、<br />「寝ていらっしゃい」と言った。三四郎はまた頭を枕へつけた。自分だけは穏やかである。<br />「臭くはないですか」と聞いた。<br />「ええ、少し」と言ったが、べつだん臭い顔もしなかった。「熱がおありなの。なんなんでしょう、御病気は。お医者はいらしって」<br />「医者はゆうべ来ました。インフルエンザだそうです」<br />「けさ早く佐々木さんがおいでになって、小川が病気だから見舞いに行ってやってください。何病だかわからないが、なんでも軽くはないようだっておっしゃるものだから、私も美禰子さんもびっくりしたの」<br />　与次郎がまた少しほらを吹いた。悪く言えば、よし子を釣り出したようなものである。三四郎は人がいいから、気の毒でならない。「どうもありがとう」と言って寝ている。よし子は風呂敷包（ふろしきづつ）みの中から、蜜柑（みかん）の籠（かご）を出した。<br />「美禰子さんの御注意があったから買ってきました」と正直な事を言う。どっちのお見舞（みやげ）だかわからない。三四郎はよし子に対して礼を述べておいた。<br />「美禰子さんもあがるはずですが、このごろ少し忙しいものですから――どうぞよろしくって……」<br />「何か特別に忙しいことができたのですか」<br />「ええ。できたの」と言った。大きな黒い目が、枕についた三四郎の顔の上に落ちている。三四郎は下から、よし子の青白い額を見上げた。はじめてこの女に病院で会った昔を思い出した。今でもものうげに見える。同時に快活である。頼りになるべきすべての慰謝を三四郎の枕の上にもたらしてきた。<br />「蜜柑をむいてあげましょうか」<br />　女は青い葉の間から、果物（くだもの）を取り出した。渇（かわ）いた人は、香（か）にほとばしる甘い露を、したたかに飲んだ。<br />「おいしいでしょう。美禰子さんのお見舞（みやげ）よ」<br />「もうたくさん」<br />　女は袂（たもと）から白いハンケチを出して手をふいた。<br />「野々宮さん、あなたの御縁談はどうなりました」<br />「あれぎりです」<br />「美禰子さんにも縁談の口があるそうじゃありませんか」<br />「ええ、もうまとまりました」<br />「だれですか、さきは」<br />「私をもらうと言ったかたなの。ほほほおかしいでしょう。美禰子さんのお兄（あに）いさんのお友だちよ。私近いうちにまた兄といっしょに家を持ちますの。美禰子さんが行ってしまうと、もうご厄介（やっかい）になってるわけにゆかないから」<br />「あなたはお嫁には行かないんですか」<br />「行きたい所がありさえすれば行きますわ」<br />　女はこう言い捨てて心持ちよく笑った。まだ行きたい所がないにきまっている。<br />　三四郎はその日から四日（よっか）ほど床を離れなかった。五日目（いつかめ）にこわごわながら湯にはいって、鏡を見た。亡者（もうじゃ）の相がある。思い切って床屋へ行った。そのあくる日は日曜である。<br />　朝飯後、シャツを重ねて、外套（がいとう）を着て、寒くないようにして美禰子の家へ行った。玄関によし子が立って、今沓脱（くつぬぎ）へ降りようとしている。今兄の所へ行くところだと言う。美禰子はいない。三四郎はいっしょに表へ出た。<br />「もうすっかりいいんですか」<br />「ありがとう。もう直りました。――里見さんはどこへ行ったんですか」<br />「にいさん？」<br />「いいえ、美禰子さんです」<br />「美禰子さんは会堂（チャーチ）」<br />　美禰子の会堂へ行くことは、はじめて聞いた。どこの会堂か教えてもらって、三四郎はよし子に別れた。横町を三つほど曲がると、すぐ前へ出た。三四郎はまったく耶蘇教（やそきょう）に縁のない男である。会堂の中はのぞいて見たこともない。前へ立って、建物をながめた。説教の掲示を読んだ。鉄柵（てっさく）の所を行ったり来たりした。ある時は寄りかかってみた。三四郎はともかくもして、美禰子の出てくるのを待つつもりである。<br />　やがて唱歌の声が聞こえた。賛美歌（さんびか）というものだろうと考えた。締め切った高い窓のうちのでき事である。音量から察するとよほどの人数らしい。美禰子の声もそのうちにある。三四郎は耳を傾けた。歌はやんだ。風が吹く。三四郎は外套の襟（えり）を立てた。空に美禰子の好きな雲が出た。<br />　かつて美禰子といっしょに秋の空を見たこともあった。所は広田先生の二階であった。田端（たばた）の小川の縁（ふち）にすわったこともあった。その時も一人ではなかった。迷羊（ストレイ・シープ）。迷羊（ストレイ・シープ）。雲が羊の形をしている。<br />　忽然（こつぜん）として会堂の戸が開いた。中から人が出る。人は天国から浮世（うきよ）へ帰る。美禰子は終りから四番目であった。縞（しま）の吾妻（あずま）コートを着て、うつ向いて、上り口の階段を降りて来た。寒いとみえて、肩をすぼめて、両手を前で重ねて、できるだけ外界との交渉を少なくしている。美禰子はこのすべてにあがらざる態度を門ぎわまで持続した。その時、往来の忙しさに、はじめて気がついたように顔を上げた。三四郎の脱いだ帽子の影が、女の目に映った。二人は説教の掲示のある所で、互いに近寄った。<br />「どうなすって」<br />「今お宅までちょっと出たところです」<br />「そう、じゃいらっしゃい」<br />　女はなかば歩をめぐらしかけた。相変らず低い下駄（げた）をはいている。男はわざと会堂の垣（かき）に身を寄せた。<br />「ここでお目にかかればそれでよい。さっきから、あなたの出て来るのを待っていた」<br />「おはいりになればよいのに。寒かったでしょう」<br />「寒かった」<br />「お風邪はもうよいの。大事になさらないと、ぶり返しますよ。まだ顔色がよくないようね」<br />　男は返事をしずに、外套の隠袋（かくし）から半紙に包んだものを出した。<br />「拝借した金です。ながながありがとう。返そう返そうと思って、ついおそくなった」<br />　美禰子はちょっと三四郎の顔を見たが、そのまま逆らわずに、紙包みを受け取った。しかし手に持ったなり、しまわずにながめている。三四郎もそれをながめている。言葉が少しのあいだ切れた。やがて、美禰子が言った。<br />「あなた、御不自由じゃなくって」<br />「いいえ、このあいだからそのつもりで国から取り寄せておいたのだから、どうか取ってください」<br />「そう。じゃいただいておきましょう」<br />　女は紙包みを懐へ入れた。その手を吾妻コートから出した時、白いハンケチを持っていた。鼻のところへあてて、三四郎を見ている。ハンケチをかぐ様子でもある。やがて、その手を不意に延ばした。ハンケチが三四郎の顔の前へ来た。鋭い香（かおり）がぷんとする。<br />「ヘリオトロープ」と女が静かに言った。三四郎は思わず顔をあとへ引いた。ヘリオトロープの罎（びん）。四丁目の夕暮。迷羊（ストレイ・シープ）。迷羊（ストレイ・シープ）。空には高い日が明らかにかかる。<br />「結婚なさるそうですね」<br />　美禰子は白いハンケチを袂（たもと）へ落とした。<br />「御存じなの」と言いながら、二重瞼（ふたえまぶた）を細目にして、男の顔を見た。三四郎を遠くに置いて、かえって遠くにいるのを気づかいすぎた目つきである。そのくせ眉（まゆ）だけははっきりおちついている。三四郎の舌が上顎（うわあご）へひっついてしまった。<br />　女はややしばらく三四郎をながめたのち、聞きかねるほどのため息をかすかにもらした。やがて細い手を濃い眉の上に加えて言った。<br />「我はわが愆（とが）を知る。わが罪は常にわが前にあり」<br />　聞き取れないくらいな声であった。それを三四郎は明らかに聞き取った。三四郎と美禰子はかようにして別れた。下宿へ帰ったら母からの電報が来ていた。あけて見ると、いつ立つとある。<br />

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